Sola Gratia

聖餐にあずかる

51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。

ここで、神による救いのみ業が食べ物や飲み物を与えて養うことにたとえられているのは、その救いが観念的なものではなくて、具体的に私たちを生かすものだからです。イエスさまも、ご自分の与える救いを、食べ物を配るというみ業で示しました。ヨハネ6章の冒頭のとおり、イエスさまは五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にさせ、具体的に人々の飢えを満たしたのです。この奇跡をきっかけに展開したのが、神が与える、人を本当に生かすまことの食べ物・飲み物とは何なのかというきょうの箇所です。

パンの奇跡を見た人々は、肉体を養うパンを与えてくれることを求めてイエスさまのところに押し寄せて来ました。そこで、イエスさまはこう話します。「肉体を養うパンは食べてもまた空腹になり、それによって養われる命はいずれ死を迎える。神が与える天からのパンこそが、死ぬことのない永遠の命を得させるまことのパンだ、そのパンをこそ求めなさい」。そしてさらに、「私こそがその天からのパン、命のパンである。父は私を生きたまことのパンとしてこの世に遣わして、この私を食べる者こそが永遠の命を得るのだ」と語ったのです。

教会の歴史は、この天からのパンであるイエスさまが人々に与えられ、人々がそのパンを食べて生かされ、永遠の命を得てきた歴史です。教会が受け継ぎ、それによって生きてきたのは、観念的な教えや思想ではなくて、イエスさまという生きたまことのパンです。私たちも、イエスさまという命のパンをいただきながら歩んでいるのです。

きょうの箇所の冒頭51節でイエスさまはこう言っていました。《わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである》。それまでは「命のパン」と言っていたのが、ここではそのパンとは「わたしの肉のことである」と言っています。パンが肉へと変化している、この言い換えによって、ユダヤ人たちの反発がますます大きくなったことが52節に語られています。ユダヤ人たちは、《どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか》と言って激しく議論し始めたのです。

それを受けてイエスさまは大切な教えを語りました。53-55節です。《はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである》。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むことによって、あなたたちは復活と永遠の命を得ることができる。そうでなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉と血こそがあなたたちのまことの食べ物・飲み物なのだ。そのようにイエスさまは宣言したのです。グロテスクな話だと感じる人も多いでしょう。ユダヤ人たちにとっても、ありえない話でした。旧約聖書は、動物の血を飲んではならないと教えます。動物の肉を食べるとき、その血は地面に流さなければならないのです(レビ記17章13参照)。まして、人の血を飲むなどということは考えられません。ですから、この後の60節にはこう語られています。《ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』》。イエスさまに従ってきていた弟子たちの中にも、これにつまずいて去った者がいたのです。

しかしこの、イエスさまの肉を食べ、血を飲むことが実に、イエスさまというまことのパン、命のパンを食べて永遠の命を得るために欠かせないことなのです。イエスさまの肉と血、それは、十字架にかかって、釘打たれ、槍で刺されたイエスさまの体と、そこで流されたイエスさまの血を指し示しています。その肉を食べ血を飲むとは、もちろん人肉を食べたり、人血を飲んだりすることではなくて、このイエスさまの十字架の死によって実現した救いにあずかるということです。神の独り子であるイエスさまが、私たちの救いのために人間となってこの世に降り、私たちのすべての罪を背負って、私たちの身代わりとなって、十字架の上で肉を裂き血を流して死なれたのです。つまり神の独り子であるイエスさまが、私たちを救うため、犠牲としてご自分の命を与えてくださったのです。このことによって父なる神は私たちの罪を赦し、私たちを神の子として受け入れ、イエスさまに与えた復活と永遠の命を私たちにも与えると約束してくださったのです。

もともと、動物の血を飲んではならないと旧約聖書が禁じたのは、血にこそ命が宿っていると考えられていたからです。命は神のものですから、動物の肉を食べ物とするときにも、命は神さまに返さなければならない、そのために血を地面に流すように定められていたのです。しかし神は、独り子であるイエスさまの命を、私たちの救いのために犠牲にし、私たちに与えてくださいました。イエスさまの命である血が、私たちの救いのために流されたのです。その救いは、独り子の肉を食べ、血を飲んではじめて私たちに実現するのです。ですからイエス・キリストを信じて救いにあずかるというのは、イエスさまが神から遣わされた救い主だという教えを受け入れるだけではなくて、私たちがイエスさまの肉を食べ血を飲んで、心と体の全体においてイエスさまと結び合わされ一体となることなのです。

56節には《わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる》とあります。イエスさまがいつも私の内におり、私もいつもイエスさまの内にいる、そのように私たちとイエスさまとが一つとなり、分ち難く結び合わされるのです。このようなイエスさまとの関係が、まさしく私たちを生かすのです。

そのためにイエスさまが備えてくださったのが、聖餐です。聖餐のパンと杯は、十字架上で裂かれたイエスさまの肉とそこで流された血を意味しています。聖餐にあずかることによって私たちは、イエスさまの肉を食べ、血を飲み、イエスさまと一つとされるのです。この聖餐は洗礼を受けた者があずかるものです。私たちはイエスさまを救い主と信じる信仰を告白して洗礼を受けますが、洗礼は私たちの信仰の決意表明ではありません。洗礼を受けることで私たちはイエスさまの十字架の死と復活の命にあずかり、聖霊のお働きによってイエスさまと結び合わされ、一つとされるのです。そのように洗礼においてイエスさまと結び合わされ、深い関係でつながれた者が、聖餐においてイエスさまの肉と血とにあずかり、イエスさまとの関係を具体的に深められつつ歩んでいくのです。

また57節には《生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる》とあります。神の独り子であるイエスさまは、父なる神によって遣わされ、父によって生かされています。イエスさまと父なる神の間には、父が私の内におられ、私も父の内にいる、という関係があり、そのような関係が、イエスさまと私たちの間にも生じます。イエスさまを食べるならば、つまりイエスさまを信じて洗礼を受け、聖餐にあずかりつつイエスさまと一体とされて歩むならば、私たちも、イエスさまが私たちの内におられ、私たちもイエスさまの内にいる、という関係でつながれ、それによって生かされていくのです。

それが信仰者の歩みであり、教会の歩みです。つまり信仰者とは、洗礼を受け、聖餐にあずかることによって、イエスさまの肉を食べ、血を飲み、イエスさまと一つにされ、イエスさまが自分たちの内におり、自分たちもイエスさまの内にいる、という関係に生きている者です。そして教会とは、そのようにキリストと一体とされた者たちの群れ、キリストという頭のもとに集められ洗礼において一つとされたキリストの体であり、聖餐においてキリストの肉と血をいただきつつ、それによって養われつつ歩んでいる群れなのです。私たちも今日新たに、イエスさまの肉と血というまことの食べ物、まことの飲み物をいただいて、新しい命に生かされていきたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまを、人に永遠の命を与えるパンとして天から降してくださったことを感謝します。ここに示されたあなたの人に対する真実の愛を信じ、希望と喜びをもって歩み続けられるよう、私たちを養ってください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン


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