Sola Gratia

弟子たちのつまずき

「56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

60節に《弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」》とあり、さらに66節には《このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった》とあり、67節に《そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた》とあります。十二弟子たちは、イエスさまを信じて教会に留まり続けるのか、それとも信仰を捨てて離れ去るのか、岐路に立っていたのです。

ヨハネ福音書は、それが書かれた紀元1世紀末の教会の状況を反映しています。そのころ教会で起こっていたことが、イエスさまの生涯を語る話の中に持ち込まれているのです。一旦はイエスさまの弟子となり、教会に加わった人々の中から、脱落し、離れ去る人々が出ていたのです。そこでイエスさまは67節で教会に連なる人々に問いかけます。《あなたがたも離れて行きたいか》

神を信じて生きるときに、私たちはこのような問いの前に立たされます。キリスト教会においては、イエスさまこそが自分の救い主であり、イエスさまに従って、イエスさまと共に生きることを決断することが求められます。

ところで、彼らはなぜイエスさまのもとを離れ去ったのでしょう。イエスさまの56節の言葉につまずいたのでしょうか。《わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる》。イエスさまの肉を食べ、血を飲むなどと聞けば気味悪く感じます。しかし、これは教会に連なっていた人々には該当しません。彼らも一旦は洗礼を受け、聖餐にあずかり、イエスさまの肉を食べ、血を飲むことをしてきたからです。

それでは彼らはイエスさまの言葉の何を「ひどい話だ」と思ったのでしょう。41節に、《ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め》たとあります。ユダヤ人たちのつまずきは、イエスさまが天から降って来たパンであるという、聖餐の根本となる言葉に対してです。

それが分かると、このつぶやきに対してイエスさまが語った61-62節の言葉の意味も分かってきます。《あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……》。わたしがもといた所である天に上るのを見るならば、今あなたがたが「ひどい話だ」と思っていることが真実であることが明らかになる、ということです。天から降って来て、天へと戻って行く、それはイエスさまが神であるということです。それに多くの弟子たちがつまずいて、それはひどい話だと思い、教会から去って行ったのです。

紀元1世紀末、教会に連なっていた人々は皆、イエスさまこそ救い主だと信じていました。しかしそのイエスさまの捉え方は一様ではなかったのです。ユダヤ人たちは、旧約聖書に基づいて、救い主メシアが神から遣わされるという希望を抱いていました。メシアは、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放したモーセのような人だ、と伝えられていました。イエスさまこそがそのメシア、救い主だと信じて、多くの人々がイエスさまを旗印に掲げ、教会に連なりました。

彼らにとって、イエスさまは救い主、メシアであっても神ではありません。神は天にいます主なる神お一人であって、モーセもイエスさまも神から遣わされた人間です。ところがイエスさまは「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる」(58節参照)と言いました。わたしは地上のパンを与えてあなたがたを満腹にする者ではなくて、わたし自身が天から降って来た者、まことの神であり、わたしというパンを食べることによってあなたがたは永遠の命を得るのだと言っているのです。

つまり、彼らの期待するのが、イスラエルを他国の支配から解放し、食物を与え、神の民のこの世の生活を導いてくれる偉大な人間としての救い主であるのに対して、実際のイエスさまは、人間となってこの世に来た独り子なる神であり、ご自身の命を与えることによって人々に永遠の命を与える救い主なのです。多くのユダヤ人がこの大きな隔たりに気づきました。彼らが《実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか》(60節)とつまずき、去って行った理由には、一人の人間であるイエスが神であるはずはないという思いだけでなく、イエスが自分たちの期待していた救い主ではなかったという失望も含まれていたのでした。

以上が紀元1世紀末の教会において起ったことですが、同じ問題はいつの時代にもあり、現在の私たちの間にもあります。イエスさまを救い主と信じる告白のたびに、私たちも同じ問いを受けるのです。まず、人間イエスがこの世の貧しい者、虐げられている者の味方として生きた、そこに救い主としての姿がある。その人間イエスの歩みを模範として、この社会をより良くするために活動することが信仰だという捉え方がありました。それと異なり、神の独り子であるイエスが人間となってこの世に来て、十字架の死と復活によって私たちに罪の赦しと永遠の命を与える救い主となった、父なる神がその愛のゆえに遣わした独り子なる神イエス信じることによって、永遠の命が与えられるという信仰の捉え方がありました。私たちも、「あなたはイエスをどのような方と信じるのか」と問われているのです。

実のところ、貧しい者、弱い者の味方である人間イエスの方がよほど分かりやすく、イエスさまは独り子なる神だという信仰はなかなか納得しづらいのです。この信仰は、人間が自ら考えて得られるものではなく、神が聖霊の助けを通してお与えになるものです。それを63節が語っています。《命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である》。“霊”とは神の霊、聖霊のことです。「肉」とは私たち人間の考えることを意味しています。私たちに本当に命を与え、生かすのは、肉である私たちの考えではなくて、聖霊なのです。イエスさまが「天から降って来たパン」であることも、イエスさまが独り子なる神であり、そのもとにこそ神が与えてくださる永遠の命があることも、聖霊によらなければ分かりません。65節の《こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのである》というみ言葉もそのことを語っています。イエスさまのもとに来て信じ、永遠の命にあずかることは、父の恵みなしでは起こらないのです。

さて、聖霊によってではなく肉によって、つまり人間の思いや感覚、理性によってイエスさまを捉えようとしている多くの人々は、「わたしは天から降って来たパンである」というイエスさまの言葉につまずいて去って行きました。《あなたがたも離れて行きたいか》という重大な問いに教会の人々は直面したのです。この問いに対する、シモン・ペトロの答えが68節です。《シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」》。これはペトロのイエスさまへの信仰告白です。

この信仰に生きるために私たちがなすべきことは、自分の考えや感覚、理性による判断といった「肉」への固執をやめて、聖霊の働きを神に祈り求めることです。イエスさまの本当の姿を私に示してください、と真摯に祈り求めるところに、聖霊によってこの信仰告白が私たちにも与えられるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は天から降り、十字架の死と復活によって、救いに値しない私たちに救いへの道を切り開いてくださいました。私たちがしっかりとイエスさまにとどまり、共に歩んでいけますよう絶えず導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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