神と恵みの言葉に委ねる
- 感謝と聖別解除
- 使徒言行録20章28~35
- 2025年03月11日(火)
28どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。29わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。30また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。31だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。32そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。33わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。4ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。 35あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、イエスさま御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
きょうの御言葉は、使徒パウロがエフェソの教会の長老たちに、ミレトスにおいて最後の別れをした時に語った言葉の後半、長老たちに訓戒を与えた箇所です。教会の歴史の中で、この箇所は長老が任職される時に読まれてきましたが、ここで語られていることは長老たちだけではなく、主イエス・キリストの救いに与ったすべての人がわきまえていなければならないことです。ここには、教会とは何か、長老とは何か、長老が心しておくべきことは何かが語られているのです。この御言葉から、私たちに与えられている救いの恵みを、改めて心に刻みたいと思います。
第一に、私たちがしっかりと心に刻んでおくべきことは、教会は《御子の血によって神さまのものとされた神の教会》
であるということです。キリストの教会は、主イエス・キリストの十字架の血という代価によって、神さまに買い取られたものです。私たちは、自らの罪の代価をイエスさまの十字架の血によって支払っていただいた、それによって神さまのものとされた者たちなのです。私たちがイエス・キリストを信じる前に、イエスさまは私たちのために、私たちに代わって十字架の上で裁きを受け、血を流されました。私たちは、主イエス・キリストの十字架の血潮によって、罪の支配、サタンの支配から救い出され、神さまのものとされたのです。
繰り返しますが、教会は、そして私たちの人生は、私たち自身のものではなく、神さまのものです。ですから、私たちの歩みも教会の歩みも、ただそれを世に明らかに示すものでなければならないのです。また、神さまのものとされているのですから、ただ神さまの栄光を求め、神さまの栄光を現す者として歩むのです。
そして、この教会を世話し、導くために長老が立てられました。聖書では「監督者」という言葉が使われていますが、この「監督者」とは、エフェソの教会の長老たちのことです。
ここで大切なのは、28節《あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください》
と、他に先んじて言われていることです。長老は、また牧師も、まず自分の日々の歩み、自分の信仰の歩みに気を配らなければなりません。人は、他人の粗にはよく気付きますが、自分のことにはなかなか気付かないものです。それは牧師も長老も同じことです。しかし、そうであるが故に、よくよく自分自身のことに気をつけなければならないのです。
そして次に、群れ全体のことに気を配るのです。この気を配るということの中心にあるのは、「教会が御子の血にあがない取られた者の群れとしてふさわしい歩みをしているかどうか」ということです。そのことに気を配り、群れ全体を導いていくということなのです。
次に、この群れ全体に気を配る上での、具体的な危機が語られます。29~30節《わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます》
。パウロは、自分がいなくなった後で、エフェソの教会に混乱を与えるような人が外から来たり、内から現れたりすると告げました。これは驚くべき洞察です。パウロは、残忍な狼が必ず来る。そして、その狼から教会を守るのが長老の役目だと言うのです。
「残忍な狼」と呼ばれている人とは、神さまの羊を食い殺す、神さまからいただいた永遠の命を奪い取る者ということでしょう。これはもっとはっきり言うと、「邪説を唱える者」、つまり異端の教えを唱える者です。異端とは、例えば、「イエスさまは神ではない。イエスさまの十字架だけでは救われない。律法を守るという行いがなければ救われない。イエスさまは復活などしなかった。」等々、私たちがイエスさまの十字架の血によって救われ、神さまのものとされたことを否定する教え、これが異端なのです。そして、それは教会に必ず入って来るということをパウロは知っていたのです。
この人たち、つまり狼の特徴は、私たちを、イエスさまに従わせるのではなく、自分に従わせようとすることです。これは分かりやすい異端の見分け方です。私たちはイエスさまを信じ、イエスさまを愛し、イエスさまに従おうとします。しかし彼らは、そのイエスさまに対する信仰を自分に向けさせようとするのです。彼らは神の栄光のために仕えるのではなく、自分の栄光を、自分の利益を求めます。このような人たち、《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者》
(マタイ18章6)の教えから教会を守るのが、長老たちの務めなのです。彼らは外から来るとは限りません。内から生じることもあるのです。
では、そのような狼から神の教会を守るためにはどうすれば良いのか。31節《だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい》
。パウロが教えたことを思い起こし、しっかりとそこに立って動かされないようにするということです。これは難しいことではないのです。主の日の礼拝ごとに聞いている福音。これと違うものに出会った時、「似て非なる《ほかの福音》
(ガラテヤ)1章6だ」と分かる。それが大切なのです。
パウロが涙をもって三年間告げてきたこと、この福音に教会を留まり続けさせるために、パウロは何をするのでしょう。32節《神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます》
。とパウロは続けました。パウロは、すべてを神さまにゆだねました。主イエス・キリストを私たちに遣わしてくださった父なる神の支配、そしてその支配のもとで与えられる「恵みの言葉」の力と導きを、パウロは信じているのです。この「恵みの言葉」というのは聖書の言葉であり、それを説き明かす説教であり、イエスさまの救いを告げる教えの言葉です。この言葉が私たちの中に宿り、私たちの信仰を育み、導き、私たちを造り変えていくのです。
この時、パウロはもう二度とエフェソの教会の人々に会うことはないと覚悟していました。もしパウロがいつまでも彼らと共にいることができたら、彼らにとっていかに幸いなことであったでしょう。しかし、パウロは、聖霊の導きの中で次の所へ行かねばなりません。パウロが語った恵みの言葉は、パウロという人間の存在、人格と深く結びついています。しかし、パウロ自身はエフェソの教会の人々が自分と強く結びつくことを求めません。何故なら、自分には彼らを救う力がないからです。パウロの願いはただ一つ、エフェソの教会の人々が救われることです。そのためには、エフェソの人々は主イエス・キリストと結ばれなければならないのです。大切なのはパウロではなく神さまであり、主イエス・キリストであり、パウロが告げた福音なのです。パウロが告げた福音、恵みの言葉、それだけがエフェソの人々をまったき救いへと導くのです。
この時にパウロが告げた32節《今、神とそのめぐみの言葉とにあなたがたをゆだねます》
との言葉は、すべての牧師がその任地を離れる時、あるいは引退する時に語りたいことなのではないでしょうか。共に永遠の御国を目指す兄弟姉妹に別れを告げる時、牧師・伝道者は、「私にではなく、私が告げた福音にしっかり立って欲しい。そこにこそ、あなたがたを永遠の命へと導いていく力があるのだから」、そう語るものなのでしょう。
最後にパウロは長老たちに、35節《受けるよりは与える方が幸いである》
とのイエスさまの言葉を引いて、教会を守り導く者への現実に即した助言をして話を閉じます。このイエスさまの言葉は大変有名ですが、福音書にはありません。パウロが伝えるイエスさまの言葉です。パウロはこのイエスさまの言葉の中に、教会に仕える者のあるべき姿を見たのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスが与え尽くし、人を生かす幸いに生きてくださったように、世界の人々も御子イエスの歩みに倣うことができますように、私たちからまずその歩みを始めることができますように、守り導いてください。私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン