Sola Gratia

あなたはわたしを愛するか

21章は《その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された》(1)と始まります。弟子たちは、エルサレムから、ペトロたちの故郷であるガリラヤへと舞い戻っています。ティベリアス湖は、ガリラヤ湖の別名です。イエスさまが復活して、弟子たちの前に姿を現してから大分日が経っているようです。

あの復活ーの日の夕方、イエスさまは弟子たちの真ん中に立って、《あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす》(20章21)と言って、弟子たちに息を吹きかけました。その息を受けた弟子たちが、そこから一気に伝道活動に邁進し、今日の教会の基礎が築かれたのだ、と私たちは思っていました。

21章の物語は、復活の主イエスさまと出会っても、なお挫折する弟子たちの物語です。これはその後の歴史に何度も繰り返されてきた物語であるとも言え、21章が書き加えられたことは恵み、神の御心であったと思います。

21章の筆者は、《その次第はこうである》と続けます。《シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた》(2)。あのトマスもこの里帰り集団の中にいます。彼らがなぜガリラヤに帰ってきたのかは記されていませんが、エルサレムでの生活は順調ではなかったのでしょう。

ペトロは、一旦は網を捨て、漁師であることをやめて、イエスさまに従いました。それだけでなく、復活のイエスさまに出会って聖霊を受け、使徒として派遣されました。ところが、そのペトロがまたガリラヤでやり直そうとしている。使徒としての働きもうまくいかなかったのでしょう。

ペトロは、この時、《わたしは漁に行く》(3)と言いました。仲間を誘う言葉ではなく、自分自身を立て直そうと自分を奮起させる言葉でしょう。彼の信仰の原点は、かつて漁師であった時に、イエスさまと出会ったことでした。ルカ福音書では、恵みの大漁を経験した後、《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる》(ルカ5章10)と言われ、《そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った》(同11)のでした。

この時のペトロの「わたしは漁に行く」という言葉に反応して、他の弟子たちも《わたしたちも一緒に行こう》(3)と、言い合いました。みんな同じ挫折を経験していたのでしょう。《しかし、その夜は何もとれなかった》(3)のです。

ここで事態を打開する出来事が起こります。《既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった》(4)。こんな時は、立ち直るきっかけがすぐそばにまで来ていても、それが分からないものです。

その人が《子たちよ。何か食べる物があるか》と尋ねると、彼らは、「一体誰だろう、こんな夜明け時に」と思いつつ、《ありません》と答えました。その人は、《舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、とれるはずだ》(6)と続けました。彼らは、言われたとおりに網を打ち、引き上げようとすると、あまりにも多くの魚がかかっていたので、網を引き上げることができませんでした。

この時、ヨハネが《主だ》(7)と叫んだ。それを聞いて、ペトロは、すぐに上着をまとって湖に飛び込みます。岸に泳ぎついた時に、裸だと失礼だと思ったのでしょう。200ペキスばかりの距離というのは約90メートルです。

結局、このスランプ状態から突破口を開いたのは、イエスさまでした。イエスさまはと言葉を与え、それに従う者を生かしてくださるのです。わたしたちの思いを超えて、できない者ができる者に変えられるのです。

弟子たちが陸に上がってみると、イエスさまが炭火をおこし、食事の準備をしていました。魚がのせてあり、パンもありました。そこへさらに《今とってきた魚を何匹か持ってきなさい》(10)と言います。このように、イエスさまはわたしたちの働きに先立って、わたしたちを迎える準備をしています。そして、そのように準備して、十分なはずなのに、わたしたちの働きの実りを、そこに加えてくださる。わたしたちの働きを祝福して、共に働くことを喜んでくださるのです。

シモン・ペトロが網を陸に引き上げると、153匹もの魚でいっぱいでした。それほど多くとれたのに、網は破れていませんでした。

イエスさまは、弟子たちに向かって、《さあ、朝の食事をしなさい》(12)と言います。この言葉、この仕草で、彼らはかつての、なつかしいイエスさまと共にある食事を思い起こします。イエスさまはパンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされました。これは、あの最後の晩餐とは違う、復活の主による希望に満ちた新しい聖餐式であって、天国の宴を指し示しているようです。彼らは、もう一度、恵みの原点に立ち返って、イエスさまの言葉に基づく生き方をしよう、伝道活動をしよう、と決心したに違いありません。

今日の15節以下は、その食事の後の話として記されていますが、イエスさまとペトロの二人だけにスポットライトが当てられています。

《食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」》(15-17)。

イエスさまが三回も同じことを聞いたのは、ペトロが三回、「イエスさまを知らない」と否定したことに対応しています。

ペトロとイエスさまは、イエスさまが十字架にかかられる前夜、こんな会話をしました。《シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます』》(ヨハネ13章36-37)。気負うペトロに、イエスさまは警告します。《わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう》(38)。

事実、イエスさまの予言どおりになりました。ペトロは十字架の日の明け方、鶏が鳴いた時に、そのことを思い知るのでした(ヨハネ18章27)。

ペトロにとっては、この出来事は痛恨の極みでした。一番イエスさまに寄り添う必要があった時に、「そんな人は知らない」と三回も言ってしまったのです。

イエスさまは、そんなペトロの気持ちを思いやって、ペトロの口から「私はあなたを愛しています」という言葉を引き出したのでしょう。一回ごとに、ペトロがイエスさまを否定したことを取り除くようにして赦し、そして三回、「わたしの羊を飼いなさい」と命じる。これは、恵みの命令です。深く挫折し、もう弟子と呼ばれる資格のない者を、もう一度立たせて、遣わすのです。これが、《わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる》(13章36)と言われたことの意味です。ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会は、そこから大きく成長していくのです。

さらにイエスさまは、ペトロに、《あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる》(18)と言いました。21章の筆者は《ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである》(19)という説明を加えています。ペトロは初代教会の基礎を築いた後、殉教をしたと伝えられています。

このように話してから、イエスさまは、ペトロにもう一度、《わたしに従いなさい》(19)と繰り返しました。わたしたちも、繰り返しイエスさまに召しだされ、繰り返し従う決心をするのです。そして「あなたはわたしを愛するか」と問いかけられます。その声に「はい」と答え、従っていきたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは、自分の召しを見失い、迷いの中にいた弟子たちを愛し、再び召し、力を与えてくださいました。御子がつねに共にいてくださることを信じて新たな道を歩めますよう、私たちをも力づけ、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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