Sola Gratia

神の家族

20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

初めに《イエスが家に帰られると》(20)とあります。イエスさまの家については、《数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り》(2章1)とあります。この家は、おそらくは、《すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った》(1章29)と言われているその家です。イエスさまはガリラヤ中を巡回して伝道し、時おりカファルナウムのこの家に帰って来たのです。きょうの箇所を読む上で鍵となる大事な言葉がこの「家」、家族のいる所です。イエスさまにとって、そして私たちにとって、家とはどこであり、家族とはどのような者たちなのか、そういうことを語っているのです。

さて、あちこちで神の国の福音を宣べ伝えていたイエスさまが、久しぶりに家に帰って来ました。すると、その知らせはまたたく間に伝わり、《群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった》(20)のです。イエスさまがそれらの人々を皆迎え入れてみ言葉を語り、癒していたからです。イエスさまは疲れをおして、ご自分の命を投げ出してまで、私たち罪人を、苦しみ悲しみをかかえている者たちを、愛してくださいました。

加えて、「一同は」食事をする暇もないほどであった、と語られていることにも注目しなければなりません。一同とは、イエスさまに従っていた弟子たちのことでしょう。また、この家の、シモンの家族たちも含まれているでしょう。彼らは、イエスさまが人々を迎え入れて相手をする、その愛の働きに巻き込まれてとても忙しい思いをし、結果的に彼らも食事をする暇もない程になったのです。弟子たちも、シモンの家族も、そして現在の私たちにしても、とりたてて何かイエスさまの手伝いができるわけではありません。働いているのはもっぱらイエスさまです。しかしそのイエスさまのもとに集い、従っていこうとする私たちも、イエスさまの徹底的な愛の働きに巻き込まれていきます。牧師の、そして教会員の皆さんの教会における忙しさとはそういうものなのです。

そこに、イエスさまの「身内の人たち」が登場します。この人たちのことはこの後の31節以下にも語られています。イエスさまの家族をはじめとする身内の人たちが、《イエスのことを聞いて取り押さえに来た》(21)のです。彼らは《あの男は気が変になっている》(21)という噂を聞いたのです。「気が変になって」いるとは、本来の自分でない別の自分になってしまっているということです。イエスさまは、ナザレの村で三十歳まで大工の息子として普通に育ち、家業を継いでいたのですが、あるとき突然家を出ていき、村からも出て、いなくなりました。案じていたら、ガリラヤ中の町や村を回って、《神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)と語って歩き、病気を癒したり、悪霊を追い出したりと奇跡を行っているという噂が伝わって来たのです。これは気が変になった、取り押さえて家に連れて帰らなければ、と彼らが思ったのは当然です。

一方には、イエスさまは気が変になったと思っている家族がいます。彼らはイエスさまのことを愛し、心配しつつ、はた迷惑にも思っているのです。しかしもう一方には、イエスさまが家に帰られたと語られているその「家」に、イエスさまを信じ従っていこうとしている人々がいます。彼らはイエスさまの愛の働きに喜んで巻き込まれ、イエスさまと共にたいへん忙しい生活を送っているのです。いったいどちらが本当にイエスさまの「身内、家の人、家族」でしょうか。イエスさまは《神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ》(35)と言います。

さて、22節以下には、エルサレムから来た律法学者たちが登場します。本場の、最高の権威を持った学者たちが来て、新しい教えを説いて問題となりつつあるイエスさまについての判断を下したのです。彼らの判断は、《あの男はベルゼブルに取りつかれている》(22a)、また、《悪霊の頭の力で悪霊を追い出している》(22b)ということでした。「ベルゼブル」とは「悪霊の頭」です。イエスさまはベルゼブルに取りつかれており、その力を借りて人々から悪霊を追い出しているのだ、と彼らは言ったのです。

イエスさまはこの律法学者たちを呼び寄せて、こう語りました。《どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう》(23-26)。ベルゼブルはここでは「サタン」つまり悪魔と言い換えられています。人間を支配し、罪にひきずり込み、滅びへと追いやろうとする力がサタンです。その支配の表われが悪霊の暗躍です。イエスさまはここで「内輪もめをしていたら、国も家も成り立たない」というたとえを用いています。イエスさまによる悪霊の追放はサタンの内輪もめではない、サタンとイエスさまとの全面戦争なのです。サタンの力に支配された私たち人間は、「気が変になって」、本来あるべきでない状態、神に敵対する思いや言葉や行いに陥り、それによって他の人をも、自分自身をも苦しめます。イエスさまは、そのような私たちを救おうと、サタンと対決してそれを滅ぼし、私たちをその支配から完全に解放し、自由を与えようとしているのです。人の知り得る対決の一部分が、悪霊追放のみ業であり、そしてイエスさまによって神の国(神の恵みの支配)が到来していることのしるしなのです。サタンはもはや自陣営内で内輪もめをしている余裕はありません。全勢力を結集してイエスさまと戦わなければならないのです。

《また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ》(27)とあります。イエスさまはご自分を強盗にたとえています。イエスさまは家に押し入って家財道具を略奪しようとしているのです。イエスさまが押し入ろうとしている家とは、私たちのことです。その家は今、「強い人」、つまりサタンによって占拠されています。この家の実質の主人となっている強い人を縛り上げなければ、この家は、私たちはその支配から解放されないのです。

イエスさまは今、神から遣わされた救い主として、サタンと全面戦争をしています。「あれは悪霊の頭が子分に命令しているのだ」との判断は、イエスさまにおいて働いている神の力、聖霊の働きを悪霊呼ばわりする、あり得べからざる間違いです。そのことを語っているのが28節以下です。《『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである》(28-30)。イエスさまのみ業がこの私の救い、サタンから私を解放するための戦いであることを認めず、そこに聖霊の働きではなくて悪霊の業を見ようとすることが、聖霊を冒涜する罪です。「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というのは恐ろしい言葉ですが、何か特定の行為が聖霊を冒涜することに当り、それと知らずに犯してしまうことはなどはないのです。むしろ、《人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される》(28)とあります。私たちが意識的に、また無意識の内に犯す罪は全て赦されるのです。

そういう罪に陥っている私たちのために、神の独り子であるイエスさまは、サタンと戦ってくださったのです。その激しい戦いの中でイエスさまは十字架にかかって死に、サタンが勝利したかに見えました。しかし父なる神は、イエスさまを死者の中から復活させました。罪と死の力を打ち破って、新しい、永遠の命を生きる体をイエスさまに与え、私たちにも、罪を赦されて新しい命を生きる道を開いたのです。これによって、私たちは、罪や冒涜の言葉を赦されて、神によって造られ、生かされ、守られている本来の自分を取り戻し、喜びをもって神に従い仕えることができるようになったのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは世を愛し、独り子を世に送り、私たち被造物に対する無条件の愛の御心を示してくださいました。私たちに聖霊を下し、イエスさまの働きの中にあなたの愛と義を覚ることができるよう助けてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン


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