Sola Gratia

たとえによる宣教

26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

きょうの福音書は、イエスさまが語った二つのたとえ話です。これが、4章の始めから語られてきた一連のたとえ話をしめくくっています。イエスさまはこのようなたとえ話を用いて「神の国」を告げ広めていました。神の国とは、神の支配ということです。神の独り子イエスさまがこの世に来られたことによって、神の支配が実現しようとしている、そのことをイエスさまはたとえ話によって語ったのです。きょうの二つのたとえ話「成長する種」のたとえと、「からし種」のたとえにはそのことがはっきりと示されています。

イエスさまは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしていると語ります。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)という言葉がそれを簡潔に表しています。あなたがたの人生そのものにおいて、神の国つまり神の支配が今や実現しようとしている、神があなたがたの日々の生活を恵みをもって支配してくださる、その神の支配がすでに始まっている、と語っているのです。

しかしその神の国、神の支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。それは隠された事実なのです。それゆえに、《神の国の秘密》(4章11)とも言われました。その隠された神の国を、目に見える現実に逆らって信じて生きることが、聖書の教える信仰です。イエスさまのたとえ話は、分かりやすい説明のための話ではなく、隠されている神の国を垣間見させるものであって、神の国がまったく見えない現実の中で、なお神の支配を信じて生きる信仰へと私たちを招くための話なのです。

「成長する種」のたとえによってイエスさまが語っているのは、神の国は隠されていて、目に見えないけれども、確実に前進し、成長しているということです。《人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる》(27-28)。このたとえに語られているのは、蒔かれた種が芽を出し、成長していき、実が実る、そのことは「ひとりでに」起るのであって、種を蒔いた人はどうしてそうなるのかを知らないということです。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は「夜昼、寝起きしているうちに」進んでいきます。もちろん農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと力を尽くします。しかしそれらは作物の生育環境を整備する過ぎません。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくことは、その作物自体の持つ力であって、それは人間の理解を超えた、またその力の及ばないことです。そのように作物は、「ひとりでに」実を結ぶのです。作物をそのように造り、力を与えた方がいるのです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神が作物を成長させ、実を実らせてくださっているのだと語っているのです。神の国もそれと同じです。イエスさまがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところにすでに蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、その力の及ばないところで、神がそれを育て、実を結ばせようとしている。その収穫の時が今や近づいていると語っているのです。

《隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない》(27)という言葉のとおり、今は隠されている神の国が、神ご自身の働きによって、いずれ必ず誰の目にもはっきりと見えるものとなります。神はそのように神の国を育て、完成してくださる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらのたとえ話は教えているのです。

「からし種」のたとえも同じことを語っています。このたとえ話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さいからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなるということです。粉粒のようなからし種が、五メートルぐらいにまで成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」のたとえです。神の国、神の支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。それが私たちの置かれているこの世の現実です。そこでは神の国を告げる福音はまさにからし種の一粒のようにちっぽけな、吹けば飛ぶようなものなのです。しかしそのからし種一粒のような神の国が、成長してどんな野菜よりも大きくなり、鳥がその葉陰に巣を作るようになる、それはただ大きくなるというだけでなく、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となるということでもあります。今は目にも止まらないようなちっぽけな種である神の国が、最終的にはそのような素晴らしい木へと成長するということです。

このように、神の国は、私たちのただ中に隠された姿ですでにあり、そして神のみ力によって成長しつつあって、実りの時へと向かっているということです。4章の初めの「種を蒔く人」のたとえにおいて示されていたように、神の国の種は、この世の様々な力によって成長を妨げられ、なかなか実を結ばないという現実があります。しかし最終的には必ず三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ(4章8)のです。神の国はそのような豊かな実り、収穫へと向かって前進しているのです。神の国は、私たちを巻き込んで前へと進んでいるのです。私たちの人生は、神の国のこの隠された前進の中に置かれているのです。神の国のたとえ話を理解するというのは、イエスさまからこの語りかけを聞くということです。そして、神の国の完成を望み見つつこの世を歩む旅人となることです。信仰者は、この世では旅人であり仮住まいの者である、と聖書は語っています。信仰者は神の国を目指して、地上を生涯旅していくのです。私たちはイエスさまと結び合わされて生きることによって、この神の国の前進を体験していくのです。

33、34節には、一連のたとえ話のしめくくりとして、イエスさまが多くのたとえで御言葉を語られたこと、しかし弟子たちにはひそかにすべてを説明されたことが語られています。つまり、イエスさまが、群衆にはたとえを用いて教え、弟子たちにはその意味を説明するという区別をつけていたことが語られています。どうして区別をしているのかについては、《人々の聞く力に応じて》(33)たとえで語られたとあります。その「聞く力」とは何でしょうか。それは9節と23節にあった《聞く耳のある者は聞きなさい》というみ言葉における「聞く耳」を持っていることだと思われます。「聞く耳」とは、「聞こうとする耳」つまりイエスさまに聞き従おうという姿勢でみ言葉を聞く耳です。イエスさまは人々のその姿勢に応じて語ったのです。これは、《何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる》(24)と語られていたのと同じです。これは、み言葉を聞くときに、それをどんな秤で量っているかによって、与えられるものが違ってくるということでした。自分の考えや願いを基準にして神のみ言葉を量り、これは価値があるとかないとか、これは役に立つとか立たないとか取捨しているのでは、つまり自分がみ言葉の上に立って裁き、それを判定するような姿勢で聞いているならば、み言葉の恵みを十分に受けることはできません。自分の思いや考えがみ言葉によって打ち砕かれ、変えられていくことを受け入れ、そのみ言葉に聞き従っていこうとする姿勢で聞くときに、私たちはみ言葉の恵みを豊かに汲み取ることができるのです。

神の国は今、私たちをも巻き込んで前進しています。私たち一人一人の人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。信仰の目を開いて見つめ、目的である豊かな収穫を待ち望みながら、旅人としての歩みを続けていきたい。その旅路において私たちは、主イエスさまが私たちをも神の国の前進のために用いてくださる、その恵みをまた体験させられていくのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたの目に見えない良き働きを、成長する種のたとえで示してくださったことを感謝します。私たちがその恵みの働きをより深く悟り、信じて歩むことができるよう、聖霊と御言葉によって導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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