21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。26生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」
イエスさまに愛され、イエスさまを愛していたラザロが死にました。イエスさまは、ラザロが病気という知らせを受けましたが、滞在地に留まり、二日間動きませんでした。その後、イエスさまがラザロの所に行くと、ラザロは死んですでに四日経っていました(17)。ラザロの姉妹であるマルタとマリアの周りには人々が集まっていました。彼女たちを慰めるために来ていたのでしょう。イエスさまが着いたと聞いて、マルタが出迎えに行きます。マリアは家の中で座っていました。この「座っていたと」いうのは、地べたに座っていたということで、当時、誰かが死ぬと、その家族は悲しみを表現して地べたに座って嘆いたのです。愛する者が死に、今、悲しみのただ中にあるマルタとマリアの所に、イエスさまが来ました。
マルタは、イエスさまに向かってこう言います。《主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに》
(21)。多くの病人たちをいやしたイエスさまの力を知っていたマルタでした。恨み言を言うつもりではなかったと思います。つい口から出たのでしょう。マルタはイエスさまを信じ、愛していました。ですから、すぐに《あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています》
(22)、と付け加えました。しかし、この時マルタは、死んだら終わりだ。そう思っていたに違いありません。
それに対して、イエスさまは言います。《あなたの兄弟は復活する》
(23)。イエスさまは、ラザロを復活させることを決めていました。ラザロが病気だと聞いても動かなかったのも、復活のみ業を行うためでした。当時、死んで三日間は、死者の魂は死んだ肉体から離れることなく漂っているが、四日経てば魂は去っていくと考えられていました。ですから、この遅れた四日というは、完全に死んだことの証拠として必要だったのです。イエスさまは、完全に死んだラザロを復活させるために来たのです。
これに対するマルタの答えは、《終わりの日の復活の時に復活することは存じております》
(24)でした。ファリサイ派の人々の信仰がまさにこれでした。マルタは、当時のユダヤ教の多数派と同じように、終わりの日に義人が復活するということは教わっていて、すでに知っていました。しかしこれは、愛する兄弟の死という現実を目の前にして、あまり力にはならなかったのでしょう。それは、マルタにとって復活は、「教え」に過ぎず、本当にそうなのかどうか分からない、雲をつかむような話だったからでしょう。
これに対して、イエスさまはこう言いました。《私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》
(25-26)。復活というのは、将来そうなるだろうというようなことではなくて、私が復活なのだ。私が、死によって終わることのない命なのだ。だから、私とつながっている者は、肉体の死によってすべてが終わり滅ぶということがないのだ。そう告げたのです。復活とは、復活の命とは、イエスさまと共にあります。ですから、イエスさまと共にある者は、すでにこの命に与っています。これは「教え」ではありません。私たちに与えられている恵みの現実、救いの現実なのです。
キリスト教は復活があると教えている、私たちはそう信じている、単にそういうことであるならば、それはユダヤ教ファリサイ派と少しも変わりません。確かに私たちは、肉体の復活はイエスさまが再び来られる終末において起きることだと信じています。しかし、いったい終末が来るまで復活は私たちと関係ないのでしょうか。イエスさまが復活であり命なのです。ですから、イエスさまを信じ、イエスさまとの愛の交わりに生きる者は、すでにイエスさまと一つになり、イエスさまの命、イエスさまの復活の命の中に生きています。それは、《生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです》
(ガラテヤ2章20)、とバウロが言わざるを得なかった、この現実の中に生きているということです。繰り返しになりますが、キリスト者であるとは、何か体系的なキリスト教の「教え」を信じているということではありません。イエスさまを信じる、復活を信じるということは、私たちの気持ちの問題ではありません。また、頭で理解することでもありません。十字架にかかり三日目によみがえったイエス・キリストというお方と共に生きている、このお方と一つに結び合わされて生きている、ということなのです。
キリスト者としてどう生きるのか、生活や倫理の問題は重要です。しかしそれは、キリスト者だからこうしなければいけない、こうすべきだと、キリスト者を型にはめるものではありません。今も生きておられるイエス・キリストと共に生きているがゆえに、私はこう生きるしかない。そういう已むに止まれぬ思いです。イエスさまが共におり、導いてくださり、道を拓いてくださる中で、永遠の命を与えられている者として日々を歩むこと、それこそが私たちの信仰です。さあ、私たちはすでに、復活の命、永遠の命の中に生きています。生かされているのです。だから、安心したら良いのです。イエスさまが悪くなさるはずがないからです。《魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか》
(ルカ11章11)です。たとえ、私たちのこの地上の命が終わったとしても、イエスさまと一つにされた私たちの命は、少しも損なわれることはないからです。
さて、福音の箇所に戻ります。イエスさまは、将来の復活を頭で信じていたマルタに向かって、そうではない、私を信じるということは、すでに私の命と共にあり、肉体の死をもってしても破られることのない命に生きているということだ。「あなたはこのことを信じるか」、と問いました。この問いは、私たちにも向けられています。そして、そのことを信じさせるために、イエスさまはラザロを復活させたのです。
年をとると、体のあちこちが痛むようになる。頭も鈍くなり、何でもすぐに忘れるようになる。確かにこれは困ったことです。私たちはいつまでも元気でいたいと思います。でも、この肉体は必ず衰えてくるのです。しかし、肉体は死んでも少しも損なわれない、私たちにすでに与えられた永遠の命、この命の中ですでに救われているという恵みの現実は、この毎年一歳ずつ年をとっていくことによっても、やはり少しも損なわれないのです。もし私たちの信仰が、頭で信じるものなら、もの忘れをするようになれば消え去ることになりかねません。しかしそうはなりません。イエス・キリストが今も生きており、自分と共にいてくださる日常にあって、その人はすでにイエスさまと一つにされた命の中に生き始めているのです。このイエス・キリストと一つにされているという恵みの現実、ここに私たちの本当の命があるのです。
私たちの信仰とは、イエスさまを信じていると思うことではありません。イエスさまを信じるとは、心も体も頭も、自分の過去も現在も将来も、全身まるごとがイエスさまのものとされるということです。そして、イエスさまのものとされたからには、イエスさまの命、復活の命が、すでに私たちに与えられ、キリストの命が私たちの中に息づいています。キリスト者とはそういう存在なのです。何とありがたいことでしょうか。
私たちが生きていくとき、つらいことはいろいろあります。一つ何とかなったと思ったら、次の問題が起きる。キリスト者も同じです。しかし、私たちはイエス・キリストのもの、イエス・キリストと一つの命です。ですから、どんなにつらいことも苦しいことも、私たちからイエスさまの命を奪うことはできないし、イエスさまの愛を奪うことはできないのです。肉体に訪れる死も、私たちの永遠の命には指一本触れることはできないのです。
「このことを信じるか」。そうイエスさまは問います。私たちはきょう、このイエスさまの問いに対して、「主よ、信じます。私はあなたのものです。私の命は、あなたの命です。ありがとうございます」、そう応える者として召し集められたのです。日々、イエス・キリストの命に生きる者として、それぞれ遣わされている所において、精一杯、主と共に歩いていきましょう。
イエスさまのお言葉を聞いて終わります。《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる》
(14章1-3)。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたはみ子イエスさまを通して私たちのために救いのみ業を成し遂げてくださいました。私たちがすでに復活の命の中に生かされていることを信じ、喜びをもって日々の歩みを進めることができますよう助け導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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