4b初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 5今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。 6むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。 7しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 9罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 11また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。
ヨハネ福音書の13章から17章は、イエスさまが弟子たちと共にした最後の晩餐の場面です。この晩餐の後、イエスさまは捕えられ、翌日には十字架につけられます。この晩餐の冒頭にこう記されていました。《さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた》
(13章1)。イエスさまは最後の晩餐の席に着き、弟子たちのこの世におけるこれからの歩みを思いながら別れの説教をしたのです。《初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが》
(4b)とあります。「これらのこと」とは、今この別れの説教で語っていることです。これまではあなたがたと一緒にいたので、そのことは語ってこなかった。しかし、いよいよ別れの時が来たので、「これらのこと」を語るのです。
この別れの説教を弟子たちはどのように聞いたでしょうか。《あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている》
(5-6)。「イエスさまが自分たちのもとから去って行こうとしており、もうイエスさまと共にいることができなくなる」。弟子たちは、心が悲しみに満たされ、イエスさまが父なる神のもとに行くことの積極的な意味、それによってもたらされる恵みを見つめることができなくなりました。
この悲しみ、不安、恐れは、最後の晩餐の場にいた弟子たちだけではなくて、イエスさまが復活して天に昇られた後に誕生し、歩んでいる教会が共通してかかえていることです。私たちキリスト信者は、天地のすべてを造り支配している神が、独り子イエスさまを救い主としてこの世に遣わして、その十字架の死と復活によって救いを実現したこと、そのイエスさまを信じることによって、私たちは罪を赦されて義とされ、復活と永遠の命の約束を与えられていることを信じています。しかし、私たちは、その救いを実現したイエスさまが天に昇り、今は父なる神の右に坐している、その姿をこの目で見ることができません。私たちは目に見える証拠なしにそれを信じるしかないのです。イエスさまが去って行ってしまうことに弟子たちが覚えた悲しみ、不安、恐れを私たちも感じているのです。
それゆえに、次の言葉は、弟子たちに対してのみでなく、私たちに対しても語られた大いなる慰めの言葉です。《しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る》
(7)。イエスさまがこの世を去って父なる神のもとに行くのは、私たちのためになる、喜ぶべきことなのだと言うのです。
イエスさまはここで、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたところに送る」と言い、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」とも言っています。イエスさまが父なる神のもとに行くのは、弁護者を私たちに遣わすためなのです。この弁護者が来るので、イエスさまが神のもとに行くことは、私たちのためになる、「喜ぶべきこと」となるのです。
この弁護者は、「真理の霊」であり、「聖霊」です。父なる神のもとに行ったイエスさまに代って、聖霊が弟子たちに、信仰者に遣わされるのです。私たちがイエス・キリストを信じてその救いにあずかり、教会に連なって生きているのは、この聖霊の働きがあってのことです。聖霊が来たことによって、私たちはイエスさまを信じ、イエスさまの父である神を信じ、神がイエスさまによって実現した救いにあずかって生きてゆけるのです。この聖霊が、天におられるイエスさまと地上を生きている私たちとを繋いでいるのです。聖霊の働きによって私たちは、目には見えないイエスさまといつも繋がっていることができるのです。
イエスさまが父なる神のもとから送ってくださる聖霊の働きとは何かが説かれます。《その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする》
(8)。まず、《罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと》
(9)とあります。聖霊は、イエスさまこそ神の独り子であり救い主でるという真理を明らかにします。それによって、イエスさまを信じることなく拒み、十字架につけて殺した世の誤り、罪がはっきり見えて来るのです。
また、《義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること》
(10)とあります。聖書における義は、人間が考える正義ではなくて、神との間に正しい良い関係があることです。私たちは罪によって神との正しい良い関係を失っています。神は独り子イエスさまの十字架の死によって私たちの罪を赦し、良い関係を回復してくださいます。その恵みに応えて私たちも神を信頼して、見ないで信じて生きるのです。そこに、神と私たちとの正しい良い関係が、つまり義が打ち立てられるのです。聖霊はこの義を、言い替えれば神の救いを、明らかにします。それが明らかにされるとき、神を信頼せず、神と良い関係にない世の誤り、罪がはっきり見えてくるのです。
《また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである》
(11)とあります。「この世の支配者」というのは政治的権力を握っている人間のことではありません。神に敵対し、私たちを神の支配から引き離そうとしている罪の力、サタンのことです。サタンは権力を握っている人間たちを用いて神の独り子イエスさまを十字架につけて殺しました。しかし神はイエスさまを復活させ、この世を本当に支配しているのはサタンではなくてイエスさまの父なる神であることを示したのです。神に逆らってこの世の支配者であろうとしたサタンは最終的に裁かれ、断罪されるのです。聖霊はこの神の裁きを、神の勝利を明らかにします。
聖霊はイエスさまによって実現した神の救いの恵みを明らかにします。すると、神の愛による救いを受け入れず、拒んでいる世の罪が同時に明らかにされます。聖霊が来ることによって世の罪が明らかになる。それは私たちの罪が、私たちが神と正しい良い関係を持っていないことが明らかになるということです。しかし、そこで聖霊は私たちの弁護者となってくださるのです。確かに私たちは罪人であり、神に背いている者ですが、その罪をイエスさまがすべて背負って十字架にかかって死んでくださり、赦しが与えられた。神さまと私たち人間との正しい良い関係はイエスさまによってすでに回復されている、と聖霊が弁護してくださるのです。
《しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる》
(13a)とあります。多くの人は知的に劣っているわけでも、性格が悪いわけでもないのに、聖書が語る真理が解からない。信仰に関することは人間に内在する力によることではないからです。聖霊が私たちの中に入ってきて心の扉を開いてくださって初めて解かるのです。
13節の後半以降には、聖霊がどのように私たちに真理をことごとく悟らせるのかが語られています。《その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り》
(13b)、《その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである》
(14)とあります。《父が持っているものはすべて、わたしのものである》
(15)とあり、その「わたしのもの」を聖霊があなたがたに告げるのです。要するに、父なる神と独り子イエスさまと聖霊の連携によって私たちに救いが与えられていることが語られているのです。聖霊が、神による救いの真理を明らかにし、悟らせてくださるので、私たちはイエスさまによる救いを信じて生きることができるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。み子はみ業を成し遂げてみ許に帰るとき、ご自分に変わる弁護者である真理の霊を与えると約束してくださいました。私たちが信仰者として喜びをもって歩みを進めることができますよう、聖霊を送って助け導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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