Sola Gratia

主イエスの昇天

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

ルカ24章はこれまで、復活したイエスさまが何人かの弟子たちに現れたことを記してきました。きょうの箇所は、イエスさまがエルサレムに集まって来た弟子たちに語った言葉で始まります。《わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである》(44)。「まだあなたがたと一緒にいたころ」とは、イエスさまが十字架につけられる前、弟子たちがイエスさまに従って各地を巡っていたころ、ということです。そのころイエスさまは弟子たちと寝食を共にしていたのです。しかし逮捕され、十字架につけられたことによってイエスさまは弟子たちから引き離され、一緒にいられなくなりました。けれども今は、復活して再び弟子たちの前に立っているわけです。

しかし、それは一時のことで、すぐに去って行き、その姿は見えなくなったのです。もはや復活したイエスさまとの交わりは、十字架以前の、いつも生活を共にするというものではないのです。「まだあなたがたと一緒にいたころ」という言葉は、十字架と復活によって、その前と後ではイエスさまと弟子たちとの関わり方が変わったことを示しているのです。

それでもここで、弟子たちは一時であれ、目に見える仕方で復活したイエスさまと出会うことができていました。しかし、私たちは、この目で見ることなしにイエスさまを信じ、目に見えないイエスさまと共に歩まなければなりません。弟子たちと私たちのこの違いは何によるのでしょうか。

それは、イエスさまが、《彼らを離れ、天に上げられた》(51)からです。体をもって復活したイエスさまが、その体において地上を離れて天に上げられたのです。復活からその昇天までの間、イエスさまは繰り返し弟子たちの前に姿を現しました。しかし昇天以後はもう、この地上で、目に見える仕方でイエスさまと会うことはなくなったのです。

使徒言行録1章3節によれば、イエスさまの復活から昇天までの間は四十日でした。その間、イエスさまはいろいろな機会に、目に見える仕方で、体をもって復活した姿を現しました。しかしそれは十字架以前とは違って、ずっと一緒にいるのではなく、一時現れては見えなくなるという現れ方でした。そのようにしてイエスさまは、昇天の後、イエスさまの姿を肉の目で見ることなしに歩んでいくことになる備えを弟子たちに与えていたのです。

先ほど読んだ44節の「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」というみ言葉もそういう思いで語られています。「モーセの律法と預言者の書と詩編」というのは旧約聖書の三つの部分を示す言い方です。その旧約聖書全体を指しています。「わたしについて」書いてある事柄が今実現し、これからさらに実現していく、というのがこの言葉の意味です。では、「わたしについて書いてある事柄」とは何でしょうか。それは、《メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる》(46-47)ということです。主なる神から遣わされる救い主メシアは、苦しみを受けて殺され、三日目に死者の中から復活する。その預言がまさに今、イエスさまの十字架の死と復活によって実現しました。そしてこれから実現していくみ心は、「罪の赦しを得させる悔い改め」が、「その名」つまりイエスさまの名によって「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。そういう神のみ心は必ず実現していくのだ、とイエスさまは語ったのです。そして、《あなたがたはこれらのことの証人となる》(48)とその務めを託します。あなたがたは、イエスさまによって実現した神の救いの出来事の証人として遣わされる。聖書に語られている神のみ心はあなたがたを通して実現していくのだ、ということです。

イエスさまはここで弟子たちに、聖書を説き明かしました。聖書に何が語られているのかを示し、それがご自身の十字架と復活によって実現したこと、そしてこれからも実現していくことを語ったのです。それによってイエスさまが教えたことは、目に見えないイエスさまを信じて生きていく私たちの信仰を支え、導き、励ますのは聖書のみ言葉だということです。聖書が説き明かされることによってこそ、イエスさまをこの目で見ることのない私たちにも、信仰が、「罪の赦しを得させる悔い改め」が与えられるのです。しかし、聖書に書いてあることをただ知識として知っていても、それだけで信仰が得られるわけではなく、「罪の赦しを得させる悔い改め」に至ることはできません。必要なのは、聖書を本当に悟ることです。そのことについて、《そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて》(45)と記されています。復活したイエスさまは弟子たちに、ただ聖書を説明し、ご自分について書かれていることを教えただけではありませんでした。イエスさまは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いてくださったのです。聖書を知識として知っているだけでは、イエスさまとは誰であるかも、イエスさまによって実現した神の救いの恵みも、そして「罪の赦しを得させる悔い改め」も分からないのです。つまり、それが自分に与えられている救いであることが分からないのです。イエスさまの十字架の死と復活によって、この私の救いが実現したということが分かること、それこそが、聖書が本当に分かるということです。そのためには私たちは、心の目を開かれなければならないのです。

「心の目を開いて」と訳されていますが、原文に「目」という言葉はありません。直訳すれば「心を開いて」です。しかし、肉の目でイエスさまを見ることのない時代を生きていく弟子たち、そして私たちのためにこのみ言葉は語られているという意味では、「心の目を開いて」と訳すことにも意味があります。そしてそのように私たちの心を、心の目を、開いてくださり、聖書によって心が燃える体験を与えるのは、聖霊です。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(49)。これは、使徒言行録第2章のペンテコステの出来事への備えとなる言葉です。復活したイエスさまが天に上げられ、肉の目には見えない方となることによって新しい時代が始まります。それは、目に見えないイエスさまを信じて生きるという時代です。その新しい時代に、信仰者と共にあり、その歩みを支え導くのは、聖霊なる神です。私がその聖霊を送るから、エルサレムの都に留まって待っていなさい、とイエスさまは語ったのです。私たちは、この約束の実現であるペンテコステ、聖霊降臨の出来事によって誕生した教会の礼拝に連なっています。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」ということが私たちにも起るのは、礼拝において、聖霊なる神が働くことによってです。《聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか》(32)という体験も、礼拝において、聖霊の導きの中でみ言葉を聞くことによって与えられるのです。

そして50節以下に、イエスさまが天に上げられたこと、昇天が語られています。イエスさまは弟子たちを祝福しながら昇天しました。彼らは目に見えないイエスさまを信じて、イエスさまによって実現した救いを心の目、信仰の目で見つめて生きていきます。目に見えない方となったイエスさまは、いつも彼らを祝福していてくださる、ということが示されているのです。

そしてそれゆえに、《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》(52-53)と語られているのです。「大喜びで」とあります。それは、イエスさまがいつでも祝福していてくださること、恵みの言葉、救いの言葉を語りかけていてくださることを確信したからです。その大きな喜びの中で、彼らは神をほめたたえていました。ペンテコステの出来事、聖霊が降り教会が誕生するという、救いのみ業における新しい展開がなされていったことをルカ福音書はそのしめくくりにおいて語っているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は御業を成し遂げて御許に帰るとき、ご自分に代わる助け手として聖霊を与えると約束してくださいました。私たちが信仰者として喜びをもって歩みを進めることができますよう、聖霊を送って助けてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン


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