9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
ルカ福音書は、《父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》
(ルカ5章48)と、相互愛の根拠を父の憐れみと言いますが、ヨハネ福音書はより具体的に、《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい》
(9)と、イエスさまにおいて現された父の愛を相互愛の根拠としています。ヨハネは、弟子たちに対するイエスさまの愛は、イエスさまが父から受けている愛が流れ出たものだと言っているのです。その上で、このイエスさまの愛の内にとどまることが、イエスさまの内にとどまることであり、弟子としてもっとも大切なことだと説いています。
《わたしがわたしの父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる》
(10)。イエスさまは父の掟を守ることによって、すなわちその全生涯をもって父が求めるところを果たすことによって、父の愛にとどまり、父との交わりにとどまったのです。そして今も父の愛の内にとどまって生きておられます。そのように、弟子たちがイエスさまの掟を守るならば、弟子たちはイエスさまの愛の内にとどまることになり、イエスさまとの命の交わりに生きることになります。
弟子たちがイエスさまの愛の内にとどまることになるかどうかは、弟子たちがこれからイエスさまの掟を守るかどうかにかかっています。そのイエスさまの掟とは、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》
(12)とあります。
ここでは、「わたしの掟」を守ることがイエスさまの愛にとどまるようになる「前提」とされていますが、その掟を守ることはイエスさまの愛を受けるための「条件」ではありません。父の愛は「無条件」であって、相手の価値とか資格を条件としないで注がれる愛です。イエスさまはこの父の無条件の愛を受けて、それを周囲の「貧しい人たち」に注いでいきました。イエスさまの愛は相手の価値とか資格を問わない、敵をも愛する愛です。
父の無条件の愛をもってイエスさまは私たちを愛してくださっており、私たちはその愛を受けています。ですから、イエスさまはその愛を受けている私たちに、同じように無条件の愛をもって互いに愛し合うように求めるのです。もし私たちがこの掟を守らず、相手を裁き、退け、自分を尊しとするならば、私たちは父の恵みが支配する場から脱落せざるをえないのです。
つぎに、イエスさまの愛の内にとどまるようにと説く、その勧めの目的が続きます。《これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである》
(11)。それは、「あなたがたの喜びが満たされるため」だということです。しかも、その喜びは私たちがこの世で味わう喜びではなく、「わたしの喜び」、すなわちイエスさまが天から受けて内に溢れさせておられる喜びです。喜びは信仰生活の基調です。喜びのない信仰はどこか不自然なところがあります。
ふつう、喜びは悲しみの反対とされます。悲しみの反対の喜びは、何か望ましいものを得たときの感情です。その反対に、何かあるべきものを失った感情が悲しみです。しかし、その喜びとは違った次元の喜びもあります。それは、寂しさとか空しさの反対としての喜び、生の充実とか存在の充満というような人間の在り方です。この喜びは外の対象に関わることなく、自分の内から溢れてくる喜びです。ですから、何かを失って悲しんでいるときでも、この内から溢れる喜びはありえます。悲しみの中で喜ぶ、苦しみの中で喜ぶということが起こります。それが信仰の喜びであり、イエスさまが「わたしの喜び」と言った喜びです。
《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた》
(13)というイエスさまの言葉を伝えるとき、ヨハネ福音書は、イエスさまが自分たちのために死んでくださったことと、そのことの中にこそイエスさまの愛が現れていることを語らないではいられませんでした。イエスさまは、《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》
(9)と言います。ここを直訳すると、「これ以上に大きな愛はだれも持っていない」となります。この言葉は、「しかし、このわたしは友であるあなたのために十字架の上で命を捨てる。わたしはそれほどまでにあなたを愛している」という、イエスさまのわたしたちに向けた愛の宣言です。ですから、このイエスさまの言葉は十字架の言葉なのです。
イエスさまは弟子たちを「友」だと言います。そして、イエスさまの友であるということは何を意味するのかを、こう明らかにします。《わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてをあなたがたに知らせたからである》
(14-15)。
イエスさまが愛した愛をもって互いに愛し合っているならば、私たちはイエスさまの愛の内にとどまることになり、イエスさまとの交わりの中に生きることになります。そのように、イエスさまとの交わりに生きる姿が「友」という言葉で言い表されています。イエスさまとの命の交わりに生きる者はもはや、主人の意図や気持ちを理解することなくただ命令に従って行動する「僕」ではなく、お互いに思いを理解して、その理解によって共に生きる「友」となっているからです。イエスさまはそのような弟子を「わたしの友」と呼びます。
弟子たちがもはや僕ではなく、「友」としてイエスさまと同じ次元に生きるようになると言われるのは、イエスさまが「父から聞いたことをすべて」弟子たちに知らせたからだと説明されます。
《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである》
(16)。これが、イエスさまと弟子の関係の原理です。ユダヤ教では、弟子がラビを選んで入門し、その教えを受け継ぎました。しかし、イエスさまと弟子の関係は違います。イエスさまが十二人を選び、従ってくるように召されたのです。私たちがイエスさまの弟子であるのは、自分の選択とか決意、忠誠とか従順などの結果ではなく、イエスさまが選んでくださった結果です。私たちは神の恵みが支配する場に生きている者なのです。私たちがイエスさまの弟子であるのは、私たちの側に根拠があるのではなく、ただひたすらイエスさまが私たちを選んでくださったからだとしか言えません。私たちがイエスさまの弟子である根拠は、徹頭徹尾イエスさまの側だけにあります。これはパウロが《神の恵みによって今日のわたしがあるのです》
(1コリント15章10)と言っているのと同じです。ここで「恵み」と「選び」とは同じことを指しています。
つぎに、イエスさまは私たちを選んだ目的を語っています。それは、私たちが「行って実を結び、その実が残る」ためです。私たちが地上の歩みの中で、その命の質を具体的に現し、その結果が歴史の中に残るためです。
私たち選ばれた枝は、選んでくださったイエスさまにつながっていなければ、実を結ぶことはできません。実を結ぶとは、「互いに愛し合う」ということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任がわたしたちにはあるということです。そのために私たちは選ばれたのです。
イエスさまが私たちを選んだ目的がさらに重ねて語られます。イエスさまが私たちを選んだのは、私たちがイエスさまの名によって父に求めることは何でも父が与えてくださるためであり、また、そのことによってイエスさまの名によって父があがめられるようになるためです。私たちは、神に愛を与えてくださいと祈りつつ、共に豊かな実を結ぶ者とならせていただきたいと思います。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたの恵みによって私たちを御子イエスさまの友として選び出し、イエスさまにつなげてくださったことを感謝します。その恵みに応えて、実を結び、あなたをあがめることができますよう導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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