1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
《わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である》
(1)。今日の箇所は、この有名な言葉で始まります。「わたしは何々である」という定型句は、ヨハネ福音書独特の、イエスさまの自己表現、自己規定です。ヨハネ福音書の中に全部で七つ出てくるのですが、これが七つ目で最後の定型句です。
「わたしはまことのぶどうの木である」という比喩表現は、「わたしはよい羊飼いである」が、偽物の羊飼いとは違うということなのと同様、「まこと」ではない「偽り」のぶどうの木と対比して、それとは違うと言っているのです。
パレスチナ地方はぶどうの産地であり、人々に親しまれた植物でしたので、旧約聖書においても、しばしばイスラエルの民がぶどうの木にたとえられました。たとえば、詩編80編もそうです。
《あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。/そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました》
(詩編80編9-12)。
ここでは、神のみ業というものを、「ぶどうの木の栽培」でたとえているのです。さらにその後の苦しみについて述べた後、詩編の詩人はこう言います。
《わたしたちはあなたを離れません。/命を得させ、御名を呼ばせてください。/万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください》
(詩編80編19-20)。
「わたしたちはあなたを離れません」という言葉は、今日のヨハネ福音書15章の「ぶどうの木と枝」の言葉をほうふつとさせます。
もう一つ、ぶどう畑の有名な箇所として、イザヤ書5章1-7節があります。
《わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。/わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑をもっていた。/よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。/その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。/しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった》
(イザヤ5章2)。
神がイスラエルの民をいかに愛されたかが伝わってくるようです。しかし、イスラエルの民は、神の期待に反して、悪しきぶどうの実を結ぶ、野ぶどうとなってしまいました。それが「偽りのぶどうの木」です。
イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇りましたが、神に選ばれただけでは、「まことのぶどうの木」とは言えません。神の約束が真実なものとして宿っているイエス・キリストご自身、その「まことのぶどうの木」にこそ、私たちはつながらなければならないと、ヨハネ福音書は語るのです。イスラエルの民であることが救いの条件ではなく、イエス・キリストにつながって、実を結ぶ者こそが救いにあずかるということです。
《わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる》
(2)。「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、このような厳しい警告が発せられますが、続けて主の慰めと励ましの言葉が語られます。
《しかし、実を結ぶものみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くされている》
(2-3)。私たちは、よい実を結ぶように、自分で一所懸命、清くならなければならないのでしょうか。そうならなければ、自分は切り捨てられるのでしょうか。いいえ、イエスさまは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くされている」のだと、言ってくださいました。命令以前に、事実として、そう宣言されたということを心に留めたいと思います。
これは洗足の出来事の中で語られた《既に体を洗った者は、全身清いのだから足だけ洗えばよい》
(ヨハネ13章10)という言葉を思い起こさせるものです。イエスさまにつながっている者は、それだけで既に主の言葉によって清くされているのです。
「イエス・キリストはぶどうの木」、「父は農夫」、「あなたがたはその枝」。父なる神と、イエスさまと、私たちクリスチャン、この三者の関係が、そういうたとえでもって語られました。
《わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている》
(4)。私たちに呼びかけると同時に、イエスさま自身がそのように私たちに手を差し伸べているのです。
《あなたがたは枝である》
(5)という宣言と「わたしにつながっていなさい」(4)という命令は、一見矛盾するようです。しかしその表現は、信仰の核心に触れていると思います。イエス・キリストはぶどうの木として、わたしたちとつながりをもち、私たちひとりひとりをその枝として結び付けてくださる。しかもそれを自分から積極的に行われる。それは確かな事実です。
しかし私たちは、そのつながりをそのまま受けとめることができるわけではありません。私たちはそれを見失い、離れて行ってしまう。深いところでは、受けとめられているけれども、私たち自身がそれを認識していなければ、実際には離れているのと、同じ状況になってしまいます。《信じない者は既に裁かれている》
(ヨハネ3章18)と言われているとおりです。「従っていく」という応答が伴わなければ、本当に「聞いた」「信じた」ことにはなりません。
ですから、このように命令と宣言が同時に語られるときに、そこには、私たちに、「本来的な自分に帰れ。イエスさまが何をしてくださったか。そしてそのイエスさまの言葉の中に留まり、その愛に生きる道なのだ」と言っているのでしょう。
私たちは、信仰をもって生きるなら、どこまでも、このまことのぶどうの木から離れることができないということを、わきまえなければなりません。まことのぶどうの木、先生であり、友と呼んでくださるそのお方から、一歩離れてしまっては、もはや信仰とはいえません。ですから、私たちは一生、求道者であり続けるのです。そして一生つながっていなければ、命を失ってしまう者です。私たちは、そこへいつも立ち帰って行くように促されているのです。
そしてイエスさまは続けられました。《あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる》
(7)。
これは、これまでのところでも出てきました。《わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう》
(14章13)。マタイ福音書では、《求めなさい。そうすれば、与えられる》
(マタイ7章7)という(無条件の)表現でした。しかし、「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのは、私たちが、求めているものがそのままに与えられるということではありません。イエスさまこそが、私たちに実際は何が必要であるかを私たち以上にご存知であって、私たちが求めているものとは違った形で、あるいはそれを超えた形で、答えられることがしばしばあるのです。また私たちが求めている時に答えられるとは限りません。時を置いて答えられるということもあるでしょう。最もふさわしい時に、最もふさわしい形で、(ともすれば、それは私たちの期待に反するような形で)、答えられるのです。
ヨハネ福音書の「わたしの名によって願うことは、何でも」とか「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば」とかいう条件付きの表現は、「どんなわがままな願い、非人間的な願いも、すべて望むとおりにかなえられる」ということではないということを示しています。「神さま、どうかあの人を殺してください。あの国を滅ぼしてください」というような願いが、そのまま全部かなうわけではないということは、かえって救いだと思います。その奥にある願いは何であるか本当は何を求めているのか。それを私たちよりも一つ高い次元で受けとめてくださって、答えてくださるのではないでしょうか。そうであってこそ、私たちのまことの主なのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたの御子イエスさまがまことのぶどうの木となって、私たちをその枝としてくださった恵みと愛に感謝します。その恵みと愛にとどまって、イエスさまに繋がって、その愛に生きる者となれますよう、助け導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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