Sola Gratia

良い羊飼いの講話

11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。 ――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(11)。ここの「羊」は私たちです。羊であるということは、無力で、不安や恐れを覚えざるを得ないということでもあります。そういう私たちにイエスさまは、「私はあなたを養う良い羊飼いである。私はあなたのために命を捨てる」と言っているのです。このことを信じて生きているのがキリスト信者です。つまりこの11節には、私たちの信仰の中心的な事柄、イエスさまによる救いとは何かが語られているのです。

「良い羊飼い」と「羊飼いではない雇い人」との違いは、羊飼いにとって羊は自分のものですが、雇い人にとって羊は他人のものであることです。その違いは狼が来た時に明らかになります。《羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる》(12a)のです。その結果、《狼は羊を奪い、また追い散らす》(12b)のです。《彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである》(13)とあります。羊が自分のものでない雇い人は、自分の身が危うくなったら、羊を置き去りにして逃げるのです。

きょうの箇所の中核は、《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(11)ということです。イエスさまが「良い羊飼い」であるのは、羊のために命を捨てるからです。雇い人は羊のために命を捨てません。自分の命の方が大事なのです。しかしイエスさまは、ご自分の羊である私たちのためにご自身の命を犠牲にしました。自分の命よりも私たちを大事にしたのです。イエスさまが十字架にかかって死なれたというのは、そういうことです。イエスさまはなぜそこまでしたのか。それは私たちを本当にご自分の羊としてくださっているからです。14節にもう一度《わたしは良い羊飼いである》(14a)とあり、それに続いて《わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている》(14b)とあります。イエスさまは私たちを本当にご自分の羊としてくださって、私たちのことを心にかけている。羊飼いにとって羊たちは、単なる「羊の群れ」ではなくて、一匹の羊が他の羊の代わりには絶対になれない、それぞれかけがえのない羊です(ルカ15章1-7)。

そして、「羊もわたしを知っている」と言われています。イエスさまが私たちをご自分のものとしてくださり、心にかけ、知っているのは、私たちもイエスさまのことを知り、心にかけ、イエスさまと共に生きる者となるためです。イエスさまは私たちとの間にそういう相互の交わりを持とうとしているのです。そういう良い関係、信頼関係を羊との間に築いているのが「良い羊飼い」です。これは、イエスさまがどれだけ恵み深いお方かということに留まりません。私たちが自分の羊飼いであるイエスさまをよく知っていて、《羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである》(10章4-5)とあったように、私たちがイエスさまの声を聞き分け、その声にのみ従っていくということ、つまり私たちがイエスさまを拠りどころとし、信頼して従っていくという信仰がそこには必要なのです。

さらにこう語っています。《それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである》(15)。神の独り子であるイエスさまと父である神との間にはすでに、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている」という相互の良い交わり、信頼関係があるのです。イエスさまはご自分が父なる神との間に持つその良い交わり、信頼関係を、私たちとの間にも築こうとし、私たちの側からの応えを待っているのです。それはとても難しいことかもしれません。しかしイエスさまのこの言葉は、この関係がどのようにして築かれるのかをも語っています。父と子の信頼関係は、先ず父が子を無条件で、本当に愛するということがあって、その愛を受けた子がその愛に応えていくことによって生まれるのです。父なる神は独り子イエスさまを無条件に愛しています。その父の愛に応えてイエスさまは、父のみ心に従って私たちのために命を捨てたのです。父なる神は、独り子イエスさまが罪人である私たちを無条件で愛することを望まれたのです。父がイエスさまを愛したようにイエスさまが私たちを愛し、イエスさまが父の愛に応えて父との良い交わり、信頼関係をもって生きているように、私たちもイエスさまの愛に応えてイエスさまとの間に同様の関係をもって生きるようになる、そのことを父なる神は願っています。つまり独り子イエスさまの十字架の死によって私たち罪人の救いを実現することこそが、父なる神のみ心であり、イエスさまは父への信頼によって、そのみ心を行ってくださったのです。

良い羊飼いであるイエスさまが私たちのために十字架にかかって命を捨てることによって、父なる神と独り子イエスさまの間にある信頼関係が、イエスさまと私たちの間にも築かれていくのです。私たちとイエスさまとの間に、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という相互の良い交わり、信頼関係が築かれるのです。つまりこの信頼関係は、私たちが努力して築いていくのではなくて、イエスさまが先ず私たちを無条件で愛したことによって築かれたのです。イエスさまの十字架の死は、神の独り子であるイエスさまが、私たちの罪をすべてご自分の上に引き受けて、その償いをしたということです。私たちの信仰は、このイエスさまの愛に感謝をもって応えていくことです。その愛に少しでも応えていこうとする時に、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という良い交わり、信頼関係が、イエスさまと私たちの間にも築かれていくのです。

イエスさまのこの無条件の愛は、私たちを超えてさらに多くの人々に広げられています。《わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる》(16)とあります。「この囲い」とは、今イエスさまという羊飼いの下に養われている羊の群れ、つまり今キリストの教会に連なっている者たちのことです。その囲いの外にも羊たちが沢山います。イエスさまはその羊たちをも導く。そしてついには、すべての羊がイエスさまという一人の良い羊飼いに導かれる一つの群れとなるのです。私たちは、このように、今はこの囲いに入っておらず、教会が宣べ伝えている救いの知らせに反発したり、無視したりしている人々をも、イエスさまが集め、導いてご自分の羊とされる、という希望を抱くことができるのです。そしてこのことは同時に、自分の仲間だけの狭い囲いの中に閉じこもろうとする私たちの思いをイエスさまが打ち砕いて、新たな出会いと交わりを与えてくださるということでもあります。私たちの良い羊飼いであるイエスさまは、そのように私たちが自分の周りに築いてしまっている囲いを取り除いてくださいます。私たちを、自分と気の合う、仲良く出来る人たちの間だけの小さな交わりから解放して、いろいろな人たちと出会わせ、新しい交わりを与えてくださるのです。そこには苦痛も伴いますが、良い羊飼いであるイエスさまはわがままな羊である私たちを、本当に必要な命の糧を得ることができる広い牧場へと導いてくださるのです。

17-18節に語られているのは、イエスさまが誰かに強いられてではなく、ご自分の意志で命を捨てるのだということです。《だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる》(18)という言葉にそのことがはっきりと語られています。イエスさまは、自発的に、ご自分の羊である私たちのために命を捨ててくださったのです。それは、このことが父なる神の愛への応答だからです。イエスさまは父なる神とその独り子としての愛に基づく信頼関係の中で、自発的に父のみ心に従って、私たちの救いのために十字架にかかって死んでくださった。そのことによってイエスさまは今度は私たちとの間にも、愛に基づく信頼関係を、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という良い交わりを築こうとしているのです。私たちはこのイエスさまの十字架の死における愛を受け、それに応えて自発的に、イエスさまのもとに養われる羊となって、イエスさまのみ声に聞き従っていくのです。それが私たちの信仰の歩みです。その歩みの中で私たちは、良い羊飼いであるイエスさまによって本当に必要な糧を与えられて豊かに養われつつ、イエスさまに導かれ、守られ、イエスさまとの間に良い交わり、信頼関係をもって生きることができます。そういう相互の良い交わり、信頼関係においてこそ、イエスさまが良い羊飼いであり、私たちはその羊であるという大いなる恵みが私たちの現実となるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまの歩みを通して、一人ひとりの人に対するあなたの広く深い愛を現してくださったことを感謝します。私たちを、羊の大牧者である御子に依り頼みつつ、小さな羊飼いとして歩ませてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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