9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
12それから、"霊"はイエスさまを荒れ野に送り出した。13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
イエスさまは洗礼者ヨハネの宣教のうちに神の呼びかけを聞き、それに応えてヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。そのとき神の霊が下り、イエスさまは神の子としての啓示にあずかると同時に、「主の僕」としての召命を受けたのでした。その啓示の第一は、神が聖霊により直接イエスさまに《あなたはわたしの愛する子》
(11)と語りかけられたことです。その言葉は聖書の中にある一群の「主の僕」預言の冒頭の一節でした。イエスさまはこの「主の僕」預言を成就する者としての使命を自覚し、それを妨げようとするサタンの激しい試みの中で、「主の僕」の道がイザヤ書53章に預言されているように苦難の道であり、多くの人のための死に至る道であることを見つめ、その道を受け入れたのです。
イエスさまは神から受けた啓示と使命をめぐって荒野でサタンに試みられ、激しい戦いの末に勝利したのですが、その内容についてはマルコはわずか二節の短い記述で伝えるだけです。
イエスさまは荒野で「主の僕」としての召命を自覚されたとき、同時に御自身が聖書(旧約聖書)全体を成就・実現する者であることを自覚したと考えられます。故郷ナザレの会堂でイザヤの預言を朗読して、《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》
(ルカ4章21)と第一声をあげて以来、イエスさまはいつも事あるごとに「これは聖書が成就するためである」と語りました。
神はイスラエルの全歴史を通して、終わりの時に最終的・決定的な救いの業を成し遂げると約束してこられました。イエスさまは「主の僕」としての召命を受けたとき、この「主の僕」こそ、神がその中に終末的な救いの業を成し遂げられる人物であることを知られたのです。イエスさまは神が終末的な約束を成就するための器として選ばれたのです。
《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて》
(14)、ガリラヤで始めた宣教活動においては、イエスさまは初めからあえて安息日の律法で禁じられている病人の癒しの業をしたり、律法を守らず汚れた民とされていた取税人や遊女たちと食卓を共にしてその仲間となるなど、律法順守に熱心なファリサイ派の人たちや律法学者から見れば律法を破るような行為をしています。そのためこの時期においては初めから「神の律法を汚す者」として生命を狙われるほどの対立が現れたのです。
このように、イエスさまの宣教は洗礼者ヨハネと共通の終末的な場に立ちながら、ヨハネとは決定的に異なる質があったのです。その理由はイエスさまの次の言葉に示唆されています。《律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている》
(ルカ16章16)。
イエスさまは神の霊を受けたとき、その時が来たこと、すなわち律法と預言(全聖書)が成就したことをその身をもって知ったのでした。イエスさまの中に、終わりの日に与えられると約束されていた神の霊によって、神と人との交わりが実現したのです。それが「神の国」なのです。イエスさまの中に神の国が来ており、福音が宣べ伝えられ、人々はその祝福に与っているのです。このように、イエスさまは神の霊によって神の国を体現していたという点で、まだ律法と預言の領域にいる洗礼者ヨハネとは決定的に異なっているのです。
ガリラヤにおいてイエスさまが《神の福音を宣べ伝えて》
(14)発した宣教の第一声は、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》
(15)でした。この第一声は、イエスさまの全宣教内容を要約するものです。
「神の国」は、イエスさまが初めて使われた用語ではありません。それには旧約聖書の背景があリます。イスラエルの民はその長い歴史の中で、自分たちがヤハウェ(主)なる神の民であり、ヤハウェこそ自分たちを統べ治める王であることを身をもって学んできたのでした。イスラエルがヤハウェ信仰による諸部族の連合から、近隣の諸強国に対抗してその存立を維持するために一人の王を戴く王国になったとき(サウル、ダビデの時代)、預言者サムエルは王として選ばれた者に油を注ぎつつも、イスラエルを支配する真の王はヤハウェただひとりであることを民に語り続けたのでした。
このように神が王として支配する状態が「神の国」です。「神の国」とは領土や領域ではなく、神が民を支配されるという出来事・関係・状態を指しています。そのため、「神の支配」と訳すほうが適切だと言われます。
「神の支配」の実現こそが、世界にとって最終的な平和であり救いです。それを伝える声こそが、究極的な「良い知らせを伝える者」(イザヤ52章7)の声です。預言者は終わりの日の「神の支配」の実現を望み見て、現実の悲惨なイスラエルの歴史を生き抜いたのでした。
このように預言者たちの「神の支配」の信仰は、現実のイスラエルの不信仰な歴史の中で終末的な様相を深めていき、その方向は捕囚期以後の歴史の中でますます強められていきました。それは捕囚以後のイスラエルの歴史が、マカバイ時代のごく短い期間を除いて、いつも異教の強大な世界帝国の支配下にあり、歴史の中での「神の支配」の実現がますます絶望的になっていったからです。もはや歴史的な出来事によってではなく、神の直接的で超自然的な介入によってこの世(旧い時代)が終わり、宇宙的な破局を経て、神が支配される新しい永遠の世(新しい時代)が到来します。このような宇宙的・二元論的構造の終末信仰は、すでに旧約聖書の最後期の文書(イザヤ24~27章、ダニエル書など)にも現れていますが、イエスさま出現の前後の時代にはますます盛んになり、多くの「黙示文書」を生み出していました。
イエスさまの時代のユダヤ教は律法学者たち、とくにファリサイ派の人たちによって指導される律法宗教でした。彼らも「神の支配」のことを語りましたが、彼らにとって「神の支配」とは人が神の律法を守ることでした。
イエスさまは何か新しい思想や信仰を宣べ伝えたのではありません。イスラエルの民がその長い歴史の中で学び待ち望んできた「神の国」、すなわち「主なる神が王として支配される現実」が、ついに時満ちて到来したことを告げ知らせたのです。この告知が「福音」です。
《時は満ちた》
(15)。福音はいつも神の約束の成就として宣べ伝えられます。預言の時、準備の時は満ちた。今や実現の時、成就の時が到来した。神が長いイスラエルの歴史の中で準備し、預言者を通じて予め約束してこられた最終的・決定的な御業が為される時が来た。このことが「福音」なのです。イエスさまは荒野で深く聖霊の啓示を受け、御自身が聖書を成就する者であることを受け止めていました。その事実を宣言する第一声が、この「時は満ちた」です。それゆえ、この宣言は、「神の国」の実現がどこか他の所で起こる出来事であるかのように、第三者として報告する性質のものではありません。イエスさまは神の国がご自分の中に実現して到来していると宣言しているのです。
このようにイエスさまはイスラエルに約束されていた「神の国」が成就・実現したことを宣べ伝えたのですが、その意味はイスラエルの民だけに限りません。準備・預言としてのイスラエルの歴史と、その実現・成就としてのイエスさまの出現、とくにその十字架の死と復活、この全体が世界のために為された神の救いの業を形成するのです。この約束の歴史の記録(旧約)と成就の証言(新約)という構造をもつ聖書全体が、世界への神の言葉を形成するのです。
《神の国は近づいた》
(15)。「神の国」はイエスさまの中に実現しているのですから、「神の国はすでに来ている」と言うことができます。しかし他方、神がこの世界を裁き支配される事態はまだ実現していないのも事実です。イエスさまはヨハネと共に、そのような「神の支配」が差し迫っていることを宣べ伝えています。事実、イエスさまの宣教全体を貫いて、「神の国」はすでに来ているという面と、まだ来ていないがごく近くにまで迫っているという面との両面があります。イエスさまの宣教においては、「神の国」は現在であり、また同時に未来である。
《悔い改めて福音を信じなさい》
(15)。時は満ち、「神の国」という終末がイエスさまの中に迫り来ているという報知が「福音」です。この「福音」は聞く者にそれを信じて受け入れるように迫ります。それはイエスさまを信じて、イエスさまの中に来ている「神の支配」に自己の全存在を委ねていくことを意味しています。それが悔い改め、すなわち神に立ち帰ることです。神は今イエスさまを通じて「神の支配」に身を委ねるように最終的に呼びかけておられるのですから。「信仰」こそ神に立ち帰ることです。道徳的に悔い改めて立派になることではありません。多少の道徳的変化くらいで「神の国」に入ることはできません。「神の支配」は人間に全身全霊の転換を要求します。それが「悔い改め」(立ち帰り)です。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスさまを通して、私たち一人ひとりに対する広く深い愛を現してくださいました。その愛に応えて、喜びと感謝をもってあなたと共に歩めますように、日々お導きください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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