2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
きょうの聖書箇所が伝えているのは、イエスさまの姿が変わったという話です。それを見たのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちだけでした。それは高い山の上のことでしたが、どこの山かは書かれていません。しかしどの山であっても高い山の上という非日常的な空間において三人の弟子たちが経験した神秘体験の話です。
そのような特別な体験をした弟子たちに対して、イエスさまはあえて口止めをしたのでした。こう書かれていました。《一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた》
(9)。
特別な体験を神が与えてくださったことですから、神の意図や目的があるはずです。しかし、その意図と目的は往々にしてその時には分からないものです。ペトロとヤコブとヨハネはその時を待たなければなりません。ですから、《人の子が死者の中から復活するまでは》
(9)とイエスさまは言ったのです。なぜなら、イエスさまが死者の中から復活して初めて、キリスト(メシア=救い主)としての本来の栄光が顕現するのですから、イエスさまの栄光に関する復活以前の人間の体験や理解はどんなものも、それだけが復活との関連なしで単独に宣べ伝えられるときは、キリストとしての本質が誤解されることになるからです。復活はこれまでのあらゆる人間の経験と理解を超える終末の出来事ですから、信じる者が聖霊によって復活のキリストと出会うことができる時が来るまでは、人間のどのような理解や解説も的外れにならざるをえないのです。
人の子、すなわちイエスさまが復活するまでは神の意図はわからないのです。つまり、弟子たちが山の上で見たこと聞いたことは、キリストの十字架と復活を経て、初めて意味が分かるのだ、ということです。
そして、実際、彼らは十字架と復活を通してその意味を知るに至ったのです。それゆえに語り出しました。そして、その出来事の意味は、ただあの三人にとって重要であっただけではありません。後の教会にとって大きな意味を持つものだったのです。ですから、こうして聖書に記されて、私たちにまで伝えられてきたのです。では、ここに記されている出来事は、どのような意味で私たちにとって重要なのでしょう。
《六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた》
(2-4)。それがこの三人の見たことでした。
「六日の後」というのは、マルコ福音書の文脈では、ペトロのメシア告白から六日後という意味になります(8章27-38参照)。そのとき、「イエスさまはキリストです」と告白したペトロに対して、イエスさまが誰にも言うなと厳しく叱りました。さらにイエスさまが受難予告をしたそのとき、ペトロはイエスさまを脇に引き寄せていさめ始めました。そういうことがあった後で、ということです。
彼らがそのときには分からなくて、後になって分かったことがあります。彼らと一緒に高い山に登ったイエスさまは、この時すでに一歩一歩十字架へと向かっていたのだということです。「人の子が死者の中から復活するまでは」とイエスさまは言いました。復活の前には十字架があるのです。そのことはすでに耳にしていたことではありました。イエスさまは度々御自身の受難を予告していましたから。しかし、理解してはいませんでした。だからこそ、神は三人の弟子たちに、エリヤとモーセがイエスさまと共にいる姿を見せたのです。
「白」は天上の世界を示す色です。「白い衣」はイエスさまが天上の世界に属する方であることを示し、その衣の輝きは「人の子」の栄光を指し示しています。地上の卑しい姿の背後に隠されていたイエスさまの本質が、いま一瞬ではあるけれども、地上の人間の前に輝き出たのです。
エリヤとモーセは旧約聖書における代表的な人物です。モーセは律法を代表しており、エリヤは預言者を代表しています。つまりこの二人がイエスさまと共にいるということは、いわば旧約聖書そのものがイエスさまと共にいるということです。それは、イエス・キリストに起こる出来事は、とくに受難と十字架における死は、旧約聖書がすでに語っていたことの成就だということです。旧約の成就だということは、言い換えるならば、それは神の御心によって起こったことだということなのです。
神の御心による苦難なら、そこには神の目的があり、その先があるはずです。イエスさまはそれを《復活》
(9)と呼びました。苦難の向こうに神の栄光の完全な現れがあるのです。それを神は前もって三人に垣間見せてくださったのです。
それは彼らにとってどうしても必要なことでした。なぜなら、彼らは「十字架へと向かうキリスト」に従っていくことになるからです。山の上に留まることはできないのです。イエスさまは山を下りていくのです。彼らも下りていくのです。実際、山の上の出来事はそのことを三人にはっきりと示すものでした。
ペトロは言いました。《先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです》
(5)。
「仮小屋」を建てるのは留まるためです。このような輝かしい状態がいつまでも続くように小屋を建てて、その山でいつでも誰でもこの三人にお会いできる、そういう状況を作りたい、それがペトロの提案の意味です。ペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言っていますが、そのすばらしい体験の中に、非日常的な世界に留まっていたかったのでしょう。しかし、神の答えは次のようなものでした。《すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』》
(7)。
「雲」は神が臨在する徴です。雲が出てくることによって、この場に神が臨在していることが示され、同時に、雲に覆われて弟子たちはもはや何も見えなくなり、神の言葉だけを聴く場に置かれていることが示されます。雲の中から響いた神の声、これはイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときにイエスさま自身が聞いた言葉ですが、今回これを聞いたのは「弟子たち」です。神は弟子たちに「これはわたしの愛する子。これに聞け」と命じているのです。「イエスさまに聴き従う」ことが、神に聴き従うことになる。これはこの福音書の主題です。
「イエスさまに聞き従う」とはどういうことか、実はすでにペトロたちは聞いていたのです。かつてイエスさまはこう言っています。《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》
(8章34)。それが「イエスさまに聞き従う」ということです。その意味で、ペトロたちが見たこと聞いたことは、ただ彼らだけのためではありませんでした。他の弟子たちのため、イエスさまの後に従いたいと思うすべての人のためだったのです。
父なる神はイエスさまを指して《これはわたしの愛する子》
(7)と呼びます。この言葉は、十字架への道を歩みを始めようとするイエスさまへの励ましとなったことでしょう。その「愛する子」は神の子でありながら、天にも神秘の山にも留まってはいません。その「愛する子」は山の下にある、罪深い人間世界へと向かうのです。罪に満ちたこの世界において、父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自らの十字架を背負うことになるのです。そして、自ら背負った十字架にかかることになるのです。その御方に従っていくならば、従う者もまた自分の十字架を背負っていくことになるのです。それゆえイエスさまは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。
そして、天の父はそう言われるだけでなく、その十字架の先に輝く栄光の姿を見せてくださったのです。それはあの弟子たちにとって必要なことでした。山から下っていくために必要なことでした。イエスさまに従って山の下の世界に生きるために必要なことでした。この世においてキリストに従っていく時に苦しみがあり試練があったとしても押しつぶされてしまわないために必要なことでした。だから彼らは人の子が復活した後に力強く語り出したのです。私たちはすでに山の上でその栄光を見せていただいていたのだ、と。
そのように語り伝えて、語り伝えられた人がまた語り伝えて、ここにいる私たちにも伝えられています。十字架の先に輝く栄光のキリストを指し示して天の父は私たちにも言われます。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。私たちもまた週毎にキリストの十字架の死と復活を思い、そしてその御言葉に耳を傾け、御言葉に従って歩んでいきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。山の上の出来事をとおして、私たちを御国へと招いてくださったことに感謝します。み言葉を聞くために集う私たちも、十字架への道を歩むキリストに従う決意を新たにすることができるよう助け、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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