Sola Gratia

イエス 病人をいやす

29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33町中の人が、戸口に集まった。 34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

カファルナウムの会堂を出たイエスさまと弟子の一行は、同じカファルナウムの町にある「シモンとアンデレの家に行った」。「シモンのしゅうとめ」(シモンの妻の母親)という言葉から、シモンが結婚しており、妻が(そしておそらく子供も)いたことがわかります。彼の妻については福音書には何も記録されていません。しかし、コリント人への手紙一9章5節から、イエスさま復活の後、世界の各地に宣教の旅をした夫と行動を共にしたことがわかります。おそらく彼女も「イエスさまとその一行に仕えた多くの婦人たち」(ルカ8章1-3参照)の一人であり、とくにイエスさまがカファルナウムにいる時には、その家の主婦として母親と共にイエスさまや弟子たちの世話に明け暮れ、押し寄せる病人や群衆の応対に忙殺されていたことでしょう。この段落は、このように、イエスさまの「神の国」の宣教運動も、使徒たちの「キリストの福音」の宣教も、名も伝えられていない多くの女性たちの献身的な奉仕によって支えられていたことを思い起こさせます。

ところが、家に着いてみると、シモンの姑(しゅうとめ)が熱を出して寝込んでいました。そこで、《イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り》(31)。ここでは、悪霊追放と病気のいやしを区別しています。イエスさまは彼女の手を握りしめた上で、ゆっくりと立ち上がらせたのでしょう。手を触れる、手を当てるなど、病人と身体的に触れることでいやしの力が伝わると信じられたのです。

《彼女は一同をもてなした》(31)。具体的には、食事の準備をしたということでしょうが、それは、病気が完全に治ったという確かなしるしであり、同時に、イエスさまにいやされて彼女も弟子となったしるしです。「もてなした」という言葉は、他の個所では、「仕える」、「給仕する」、「世話をする」などと訳されます。この言葉はマルコ福音書の中で、イエスさまご自身の生き方を表す言葉として、また弟子たちの生き方を指し示す言葉として重要です。マルコ10章43-45にこうあります。《あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである》。つまり、「もてなす人=仕える人」となったシモンの姑は、イエスさまの弟子になって、イエスさまと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていきました。ただ単に肉体的ないやしが問題なのではなく、イエスさまのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わるということが大切なのです。

イエスさまとその一行は会堂から出てすぐにシモンの家に入ったのですから、シモンの姑が癒されたのは安息日の午後でした。会堂で悪霊を追い出したイエスさまのことは、その午後の間に町中の評判になっていたのでしょう。《夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった》(32-33)。ユダヤ教では一日は日没から始まり次の日の日没で終わります。安息日は金曜日の日没で始まり土曜日の日没で終わります。ユダヤ教の律法では、安息日は何の業もしてはならないと決められていました。病人をいやすことも禁じられていました。歩いてよい距離までも決まっていました。それで「夕方になって日が沈むと」というのは、安息日が終わるのを待ちかねていやしていただくために病人を連れてきたのです。

イエスさまが会堂で汚れた霊を追い出し、シモンの姑の熱病をいやしたのは安息日のことで、これは後に律法を犯したと責められることになります。

《イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出した》(34a)。これがイエスさまの「神の国」宣教の際立った特質です。すでにマルコ福音書は会堂で悪霊を追い出した出来事を伝えて、それがイエスさまの言葉の権威の現れであることを示しています。

《悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである》(34b)。ルカ福音書の並行箇所はさらに詳しく報告しています。《悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、彼らがイエスをメシアだと知っていたからである》(ルカ4章41)。「イエスが誰であるか」、これが福音書の根本問題です。イエスさまは、神の子としての権威をもって、病をいやし、悪霊を追い出します。しかし、イエスさまご自身は、この秘密を知る者に公表することを厳しく禁じます。イエスさまのこの態度は、宣教活動の最初から現れ、地上の生涯の最後まで続いています。イエスさまは、そのような目に見える不思議な業だけで、ありがたい救い主として受けとめられることを望みません。十字架と復活によって、驚くべき救いの中身が現されるときまで、イエスさまはご自分の栄光を隠しているのです。

イエスさまは祈りの人でした。見えざる父との祈りの交わりこそ、イエスさまの人格と力の源泉でした。《朝早くまだ暗いうちに》(35)、人々がすべて深い眠りの中にあるとき、イエスさまただ一人目覚めて、誰もいない《人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた》(35)。この光景は象徴的です。世界がなお、神の生命から遠く離れた暗闇の中に眠り込んでいるとき、イエスさまただ一人神の真理に目覚め、神との交わりの次元に生きています。

すると、《シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると》、自分たちの家に帰っていただこうとして、《「みんなが捜しています」と言った》(36)。病人をいやし悪霊を追い出す素晴らしいイエスさまは、いつまでも自分たちのところにいてほしい。ほかには行ってほしくない。そのような人間の願望に、イエスさまはこう言います。《近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである》(38)。福音は一握りの人間の願望の中に閉じ込められてはなりません。イエスさまは「ここを出て」、まだ彼を知らない所へ進んで行きます。

イエスさまは「宣教する(宣べ伝える)」ことが自分の使命だと言っています。マタイは《御国の福音を宣べ伝える》(4章23,9章35)と表現し、ルカは《神の国の福音を告げ知らせる》(4章43)と言って、何を宣べ伝えるのかを明示しています。それに対しマルコは、「宣教する」という動詞一語でイエスさまの使命を表現しています。マルコ福音書は、イエスさまが「神の国」を宣べ伝えたことは当然のこととしているのです(1章14-15参照)。

《主の名を呼び求める者はだれでも救われる》のですが、しかし、《信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう》(ローマ10章13-15)。イエスさまはこのような質の言葉を宣べ伝えることが自分の使命であると自覚しているのです。このような使命の前では、いやしの業はそれ自体が目的とはなりえません。いやしはイエスさまが宣べ伝える言葉の質を指し示す「しるし」となります。

《このためにわたしは出て来たのである》。イエスさまは「わたしは出て来た」と言います。イエスさまはご自分をこの世に属する者ではなく、別の所から出て来た者であると自覚しています。イエスさまのこの自覚は父とのまったき交わりから来ています。イエスさまは父のもとにいます。それで、地上にいる事実は「出て来た」と自覚されるのです。

《そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された》(39)。この記事から、ガリラヤでの宣教活動の初期においては、イエスさまはおもに会堂で「神の国=神の支配」の到来を宣べ伝えたことが知られます。イスラエルの民がアブラハム以来二千年の歴史の中で信じ待ち望んで来た「神の国」が、今や時満ちて到来しているのです。イエスさまは本来このイスラエルの民に遣わされたのです。それでイエスさまはまず、神の民イスラエルがもっとも具体的に姿を表す「会堂」において、彼らの信仰と希望の成就を告知するのです。イスラエルの歴史はイエスさまにおいて成就しました。神の民の歴史はイエスさまにおいてその目的地に到達しました。このイエスさまにおいて成就したイスラエルの歴史全体が世界に対して神の言葉となり、救済の御業となります。

イエスさまがガリラヤ全土を巡り歩いて活動するにあたって、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人の漁師も同行したはずです。彼らは漁師としての家業を続けることはもはやできませんでした。この段階で彼らは家業を捨ててイエスさまに従って行くようになったのでしょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが人のあらゆる苦しみを負い、あがなってくださったことを感謝します。私たちが御子による救いのこの御業を福音としてしっかりと受けとめ、信じることができますよう導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


タグ一覧

説教検索

キーワード


© Sola Gratia. 高野牧師のホームページ.

powered by freo.