21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
「カファルナウム」はガリラヤ湖の北の岸辺の町で、そこにイエスさまの最初の弟子となったシモンとアンデレの家がありました。イエスさまの一行はその家に滞在したのです。この家が、イエスさまのガリラヤにおける伝道の拠点となりました。そして、《イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた》
(21)。イエスさまがカファルナウムの会堂で何を語ったか書かれていません。けれども、イエスさまが宣べ伝えた神の福音は、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》
(15)ということでした。時はもう満ちている、神の国は近づいている。だから、神の国、つまり神の愛の支配をちゃんと受け止めて、それに応答しなければならない。それが、「悔い改めて福音を信じる」ことなのです。
「会堂」は、「シナゴーグ」と言って、ユダヤ人たちが集会をする場所のことです。それは、もともとは「集まり」という意味でした。ユダヤ人たちは、安息日にはどこかに集まって、聖書(旧約聖書)を共に学んでいました。聖書の中でもとくに「律法」についての教えを律法学者たちから聞くという形の集会をしていたのです。エルサレムの神殿が破壊されてからは、このシナゴーグで律法を学ぶ集会がユダヤ人たちにとって神を礼拝する唯一の場となり、ユダヤ教の会堂=シナゴーグとなったのです。また、この安息日に会堂で行われていたユダヤ人たちの礼拝が、キリスト教会の日曜日の礼拝の起源ともなりました。イエスさまはこの安息日の会堂における礼拝に出席して、そこで教えを語ったのです。それは、イエスさまの教えは、イスラエルの民の礼拝において語られるべき神のみ言葉だということです。
カファルナウムの人々は、安息日に会堂で語られたイエスさまの教えを聞きました。《人々はその教えに非常に驚いた》
(22a)。それまでこんな教えは聞いたことがない、と思ったのです。それはイエスさまが、《律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》
(22b)。
これは律法学者たちの教えに権威がない、ということではありません。しかしその権威は彼ら自身の権威ではなくて、律法すなわち神のみ言葉の権威です。それを解釈し応用することによって彼らの教えも権威あるものとなります。律法の条文の裏付けなしに何かを語ったとしたら、その教えには何の権威もないのです。それに対してイエスさまが「権威ある者として教えている」というのは、ご自身が権威を持っている御方として教えているということです。つまりイエスさまの教えは、律法にこう教えられているから、聖書のどこにこう語られているから、という根拠を必要としていないのです。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》
(15)はまさにそういう教えです。これは律法の解釈ではない。イエスさまは宣言しているのです。そしてその宣言に基づいて、「悔い改めて福音を信じなさい」という勧めを語っているのです。イエスさまは、「時は満ち、神の国は近づいた」という、神の救いのみ業における新しい事態をもたらした本人として、その新しい事態に即した新しい生き方を人々に求めたのです。つまりイエスさまは、神の独り子としての権威を持っている方として語った。そのことが、こんな教えはこれまで聞いたことがない、と人々を驚かせたのです。
この驚きこそ、信仰の始まりです。信仰は、神のみ言葉に驚くことから始まるのです。律法学者のような教えからは驚きは生まれません。驚くというのは、それまでまったく知らなかった、人間の常識にないようなことが示されるということです。「時は満ち、神の国は近づいた」というのは、自分がすでに知っていることを超えた新しいことが、今や神によって引き起こされようとしているということです。だから驚きなのです。
そして「悔い改めて福音を信じなさい」。これは、聞く者に悔い改めを迫る言葉です。悔い改め、つまり神から顔を背けて、他の方向を見つめて歩んでいる者が、神の方へと向き変わり、神に従って歩む者となる、そういう決断を求めているのです。それは同時に「福音を信じなさい」という勧めでもあります。福音とは、神による救いを告げる良い知らせです。それを信じる、つまり神による救いの恵みを受け入れ、それにあずかることへと招いているのです。悔い改めるとは、福音を信じて神の救いにあずかることです。聞く者にそういう決断を求め、またそこへと招くみ言葉をイエスさまは語ったのです。それは、あなたは悔い改めて福音を信じるのか、それともそれを拒み、あくまでも自分の思いによって生きていくのかという決断を求めているのです。イエスさまの教えのみが持つこの権威に驚くことから、信仰が始まるのです。
しかし、この驚きは信仰の始まりとなると同時に、つまずきの始まり、敵対への始まりともなります。そのことが23節以下に語られます。イエスさまが権威ある者として語り、人々が驚いた、しかしすぐに、それと同時に、会堂にいた一人の、汚れた霊に取りつかれた男が叫び出したのです。《ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ》
(24)。彼は「かまわないでくれ」と叫びました。イエスさまが、権威ある者として語るとき、「かまわないでくれ、ほっといてくれ」という思いが、つまりイエスさまの権威ある言葉に反発し、敵対する思いが、私たちの中にも生じるのです。
ところで彼は、「我々を滅ぼしに来たのか」と言っています。「我々」という複数で語るのは、これがこの人自身の言葉と言うよりも、彼に取りついている汚れた霊、悪霊の言葉だからです。だから、イエスさまは《黙れ、この人から出て行け》
(25)と、この人をではなくて、彼に取りついている悪霊を叱ったのです。
悪霊は、人間に取りつき、さまざまな病気、とくに心の病を引き起こすものと考えられていました。病気になると、普段とは人が変わったようになってしまうという体験から、肉体が悪霊に乗っ取られて、悪霊の言葉を語るようになっているのだと考えられたのでしょう。今日の医学は、心の病を悪霊の仕業と考えることはなくなりました。病気の人を、悪霊の手先のように排斥するのでなく、適切な治療をするようになりました。しかし、私たちの心を支配し、イエスさまに対して、「かまわないでくれ、ほっといてくれ」と敵意をもって叫ぶように仕向ける悪霊は、病気とは関係なく、今も私たちの間で力を奮っています。その悪霊に取りつかれるとき、私たちは、イエスさまを信じ従うことができなくなるだけでなく、神のみ心よりも自分の思い、考え、願いを第一とするようになり、それに反対し、妨げる者を敵と見なして対立するようになります。個人の人間関係においてもそれが起るし、さらには国民全体が、あるいは民族のレベルでそういう敵意に捉えられてしまうことも起ります。一人一人はおとなしい善良な人間が、そのような敵意に捕えられると、残虐な悪魔になってしまうことがあるのです。日本人にも、悪霊に取りつかれてしまったような時期がありました。科学が進歩すればそういうものは消えてなくなる、ということはまったくありません。むしろ今日の社会において、悪霊が奮っており、それに取りつかれることによって何が起っているのかをしっかり見極めていく必要があります。
イエスさまはこの悪霊と対決し、悪霊を叱りつけ、「この人から出て行け」と命じました。すると悪霊は出て行きました。つまりイエスさまは悪霊に勝利し、それに取りつかれている人をその支配から解放したのです。イエスさまの権威ある教え、「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、神が悪霊の力を打ち破って、神の支配を確立する時がいよいよ来たということです。そして「悔い改めて福音を信じなさい」という勧めは、神の支配による救いが実現しようとしているのだから、その神の方に全身を向けて、その支配を受け入れ、救いにあずかりなさいという招きです。この招きに応えることによって私たちは、私たちを神に敵対させ、隣人に対しても敵意を抱かせている悪霊の支配から解放され、神に従って新しく生きる者とされるのです。
イエスさまの悪霊との戦いは、ここで終わったのではありません。それはイエスさまの十字架の死にまで至る戦いでした。神の独り子イエスさまが、人間となってこの世に下り、悪霊に支配され、神に敵対する罪に陥っている私たちのために戦って、その戦いにおいて私たちのすべての罪を背負い引き受けて、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったのです。この死によってこそ、私たちを支配している悪霊は滅ぼされ、私たちの解放が、すなわち罪の赦しが実現したのです。イエスさまの神の子としての権威は、つまり神の恵みの勝利は、この十字架の死において、そして父なる神がそのイエスさまを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えたことにおいて、あらわになりました。そこには、私たちを悔い改めさせ、神の救いの恵みにあずからせる「権威ある新しい教え」があるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子が地上に下り、身をもって人に対する愛の御心を示してくださったことに感謝します。私たちが御言葉に親しみ、神と共に歩む姿勢をしっかりと身につけることができますように聖霊によって導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
© Sola Gratia.
powered by freo.