Sola Gratia

キリストの招き

14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18二人はすぐに網を捨てて従った。 19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

《ヨハネが捕らえられた》(14)。これは衝撃的なニュースでした。ユダヤの全地方からおびただしい数の人々がヨハネのもとに訪れ、罪の赦しを求めて洗礼を受けていました。彼らの中には「この人こそメシアであるに違いない」と思っていた人もいたし、旧約聖書に出て来る預言者エリヤの再来かと思っていた人もいたでしょう。しかし、洗礼者ヨハネは正しいことを語ったがゆえに捕らえられてしまいました。

捕らえたのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデでした。ヨハネが捕らえられ、獄中で首をはねられるに至った次第は、この後の6章に記されています。

ヘロデの強大な権力の前にはどうすることもできません。人々はこの世の権力の悪なることを思って嘆くことしかできなかったのです。

そのような時代のただ中に、ヨハネと入れ替わって、イエスさまが声を上げたのです。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(15)。ヨハネを捕らえたヘロデの強大な権力を前にして、さらには、その背後にあるローマ皇帝の権力が支配するそのただ中に、「神の国は近づいた」と宣べ伝えることは、当時の人々にとってまことに過激なことでした。それは、神の王国が到来するということであって、その支配者はヘロデやローマ皇帝の上にあると宣言することだったからです。

人々はかつての洗礼者ヨハネの説教を思い起こして、あらためて期待を呼び覚まされたことでしょう。神の正義の支配が目に見える形で実現する。それは、あのダビデの王座の回復、イスラエルの王国の復興に他なりません。イエスさまは「福音(良い知らせ)を信じなさい」と言います。それはヨハネから洗礼を受けた人々やヨハネの弟子たちに期待を掻き立てたことでしょう。

しかも、《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き…》(14)とあります。イエスさまはヨハネの洗礼活動を引き継ぐのではなく、宣教活動の拠点をあえてガリラヤに移します。そのこともまた人々の期待に拍車をかけることとなったかも知れません。ガリラヤは反ローマ武装闘争である熱心党運動の発祥の地であり拠点であったからです。その運動は、神の力による解放が近いという終末信仰にもとづく極めてガリラヤ的な運動でした。後にイエスさまの弟子となる人々の中に「熱心党のシモン」(3章12-19参照)と呼ばれた熱心党出身者がいたこともうなずけます。ガリラヤという、まさに反権力思想が息づいている地域において、「時は満ち、神の国は近づいた」と声を上げたのです。そして、イエスさまはガリラヤにおいて、自分に従う者の集団を形成し始めたのです。

イエスさまがまず目を留めたのは網を打っている漁師たちでした。シモンとその兄弟アンデレに言います。《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》(17)。すると《二人はすぐに網を捨てて従った》(18)。この話は極端に見えますが、ヨハネ1章35以下によると、アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネを通してイエスに出会っていました。そして、そのアンデレを通してペトロもすでに出会っていたようです。また「網を捨てて」とありますが、実際には後でイエスさまの一行がシモンとアンデレの家に行ったことが出てきますから(29)、家と断絶したわけではないようです。《すると二人はすぐに網を捨てて従った》という言葉には、すでに相当な期待が彼らの内にも存在していたことが示されています。そして、同じことがゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネについても言えます。彼らは網の手入れをしていました。彼らも呼ばれます。そして、《この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った》(20)と書かれています。

イエスさまがメシアなのか、そうではないのか、その時点ではまだ彼らには確かなことは言えませんでした。しかし、神の国の到来に向かって、この人を中心に何かが起こっている。彼らはそういう期待を抱いてついて行ったのでしょう。

そして、ついて行った人々が目にした数々の出来事は、その期待が間違っていないことを裏付けるように見えました。彼らを招いたイエスさまは「権威」、しかも「神の権威」の持ち主であることが次第に明らかにされていったからです。その人の言葉によって汚れた霊は大声をあげて出て行きます(21以下参照)。《イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった》(28)。

きょうの御言葉は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まりました。これはもともと「引き渡す」という意味の言葉です。「ヨハネが引き渡された後」です。この同じ言葉はこの後、何度も、とくに14章と15章に集中して現れます。例えば、《十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った》(14章10)。《ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した》(15章15)。

「引き渡された」洗礼者ヨハネの後を追う形で、イエスさまは公の宣教を開始し、そして、やがてそのイエスさまも「引き渡される」ことになります。マルコ福音書は、人々の期待とは逆方向に向かうイエスさまを伝えようとしているのです。

この福音書のちょうど真ん中の8章において、あの時イエスさまについて行った弟子たちの期待は頂点に達します。そこでペトロがイエスさまに《あなたは、メシアです》(29)とはっきり言い表しています。それは弟子たちの共通した見解でした。しかし、そこでイエスさまは自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。そして、《それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた》(8章31)。

そして、事実イエスさまはそのように歩み、やがて十字架にかけられることとなります。そこで、《弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった》(14章50)。ペトロについては、三回もイエスを否んだ話が別に伝えられています。

しかし、それだからこそ、「イエスはガリラヤへ行き」と書かれていたことが大きな意味を持つのです。そして、他ならぬガリラヤにおいてペトロたちが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが意味を持つのです。というのも、あの時と同じようにイエスさまは再びガリラヤに行かれることになるからです。ペトロたちはもう一度、復活したキリストによって招かれたこのガリラヤの場面に戻ってくることになるのです(16章9-11参照)。

十字架にかけられたキリストが復活したとき、空になった墓において婦人たちはこのような言葉を聞いたのでした。《さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と》(16章7)。

イエスさまを見捨てたペトロたちです。もう弟子であるなどと言えない彼らでした。しかし、彼らのためにも十字架にかけられ復活したキリストが、再び出会ってくださった。そして、彼らを再び招いてくださった。だからこそ、後の「使徒ペトロ」や「使徒ヨハネ」がいるのです。彼らはガリラヤにおいて、あの初めの時のことをはっきりと思い出したに違いありません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その言葉は新たな力をもって彼らに迫ってきたことでしょう。そして、後々まで語り続けたに違いありません。

ガリラヤにおいて彼らと出会い、彼らを赦し、彼らを招いた復活のキリストこそ、私たちを招いてくださったキリストです。復活された主が私たちにも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってくださったのです。

洗礼者ヨハネが捕らえられたとき、人々はこの世の権力の悪なることを思ったことでしょう。だからこそその支配を覆してくれるメシアを待ち望んだのでしょう。しかし、彼らが本当に戦わなくてはならなかった相手はヘロデでもローマ皇帝でもありませんでした。本当の敵はこの世の権力ではなくて、権力者のみならずすべての人を神から引き離してがっちり捕らえている罪の支配なのです。本当の戦いは罪との戦いなのです。

そこにおいて必要なことは、一人ひとりの人間が神に立ち帰り、罪の赦しを得て神と共に生きる者となることです。そこにこそ罪の支配に代わる神の支配、神の国が到来するのです。一人ひとりの「人間」に対して、神の愛と赦し、神の招きを伝えていくしかないのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その御言葉によって召され、集められ、この世に遣わされているのが教会なのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子をこの世に遣わし、私たちに救いの良き知らせをもたらしてくだった御心を喜びと感謝をもって賛美いたします。どうか私たちを聖霊によって力づけ、あなたの手足として用いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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