31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
いよいよこれから受難の旅に踏みだそうとするこの時から、イエスさまはご自分に関する秘密を《弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった》
(31-32)。マルコ福音書は、ここでイエスさまが明らかにした秘密こそ福音の核心を明白に宣言したものとして、福音書の中心に置きます。その内容は、《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている》
(31)ことです。
ここで「人の子」とはイエスさまご自身を指しています。イエスさまはこれまでもしばしばご自分を「人の子」という呼び方で指しています。
イエスさまはただひたすら、父なる神の啓示、すなわち父の絶対的な恵みの支配の到来という終末の事態を宣べ伝えるのですが、それがイスラエルの支配者たち(長老、祭司長、律法学者たち)と真っ正面から衝突し、彼らから「排斥され」ることになるのです。
イエスさまはすでに早くから、ご自分の宣教の働きから生じるこのような結果を必然的なものと見ていました。それは、すでに聖書が詩編や預言書(とくに詩編22編やイザヤ書53章)で、苦しみを受ける義人や預言者の姿の中に数多く描いていました。そこに、神が「聖書を成就される」業を見ていたのです。
このように「人の子」が苦しみを受け殺されることは、神による聖書の成就、すなわち神の終末的な救いの業ですから、それは死で終わらず、死を超える栄光の出来事が続きます。それが「三日後に復活する」と言い表されています。
「そのことをはっきりとお話になった」イエスさまに対して、《ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた》
(32)。ペトロが期待しているメシアはその力と威光によって不義や不法を滅ぼす者です。不法の力に屈して殺されるメシアなど、ペトロや弟子たちはとうてい考えることはできなかったのです。ペトロはイエスさまにそのような受難の道を行かないように切に願い、「メシア」の力と威光を現わす道を選ぶように忠告したのでしょう。
すると、《イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って》
、《サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている》
(33)、と激しい言葉を投げかけます。この言葉の激しさは、ペトロの無理解に対する怒りの激しさではなく、イエスさまご自身の内面における戦いの激しさの表出です。
《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》
(34)。
弟子たちにご自分の受難の秘密を明かしたイエスさまは、弟子たちにも苦難の道を歩む覚悟を求めます。ここに集められた五つの言葉(36節と37節を一つと数えて)は、おそらくイエスさまがさまざまな機会に語った言葉を、苦しみを受け殺される人の子という秘密とそのような方に従う弟子のあるべき姿についての言葉として、マルコ福音書がここに集めたのでしょう。
イエスさまは弟子を召すとき、いつも「わたしに従って来なさい」と言っていました。今、弟子としてイエスさまに「従う」とはどういうことを意味するのか、初めてその内容が明白な言葉で語り出されました。
弟子たちがイエスさまについて来たのは、メシアとしてのイエスさまがイスラエルを回復する事業に参加して、その栄光に与りたいと願ったからでした。このような弟子たちのメシア理解は、ペトロがイエスさまから厳しく叱責された後も続いていたのです。のちにヤコブとヨハネが《栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください》
(10章35-37)と願ったのは、このような期待の現れだったと考えられます。
イエスさまはこの世を代表する支配者から排斥されて殺されるのです。そのようなイエスさまについて行こうと願う者は、自分の理解や期待や願望を捨て、そのような自分自身を否定し、自分そのものを捨てなければ、イエスさまに従って行くことはできません。そして、そういう生き方が、「十字架を背負って」という言葉で言い表わされているのです。
《自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである》
(35)。
イエスさまご自身が自分の命を失うことを通して真実の命にいたる道を歩んでいます。「失うことによってそれを保つ」という命の世界の秘義は、ルカ17章33やヨハネ12章25(一粒の麦)で一般的な形で伝えられていますが、ここでは「わたしのため」、すなわち苦しみを受け殺される「人の子」イエスさまに従うことによって、弟子たちが自分の命を失うという関連で取り上げられています。
命とは自分自身です。自分で自分を救おうとする者は、不可能なことを無益に試みているのです。それに対して、イエスさまに従う者として「自分の命を失う」者、すなわちイエスさまのために自分を捨て、自分を否定する者は、イエスさまのように自分を神に投げ出して、神から真実の命を受ける、あるいは神に真実の命を見いだすのです。神は命そのもの、また永遠の命だからです。
《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》
(36-37)。
「人は自分の命を失うことによってその命を救う」というイエスさまの言葉は、その二つの命が同じ命であるかぎり、解きがたい矛盾です。けれども、イエスさま復活の後、信じる者たちはキリストから賜る聖霊によって新しい命の世界を体験し、自分を失うことによって神から与えられる命は、地上の生まれながらの命とは別種の命であることを知りました。ヨハネ福音書はその命を「ゾーエー」と呼んで、生まれながらの命である「プシュケー」と区別します(12章25)。その新しい命が生まれながらの古い命と決定的に違う点は、それが復活に至る命であることです。
《神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき、その者を恥じる》(38)。
マルコ福音書では、ここで初めて「人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」のことが出て来ます。この時のことについては、さらに黙示録的な終末予言(13章26-27)と最高法院での最後の証言(14章62)において明白に語られることになります。
イエスさまの時代のユダヤ教には、神が最終的な救いの業を成し遂げてくださる時が近いという期待が熱く燃えていました。そのような期待の一つの形として、イスラエルを再びダビデ王国のような栄光に回復する「ダビデの子」としてのメシアが待望されていましたが、同時にもう一つ別の形の終末待望がありました。それは、ダニエル書をはじめ第四エズラ書やエノク書というような、当時広く流布していた黙示文書に表されているもので、そこでは天から現われる「人の子」によって最終的な神の支配が顕現するとされていました。イエスさまはご自分が「ダビデの子」としてのメシアであることは厳しく拒みましたが、この「人の子」が現われる時のことについては、当時の人々の待望を当然の前提として、黙示文書的な用語で語っています(とくにルカ17章22-37)。
イエスさまはまだ「わたしがその人の子である」と明白な言葉では語っていません。しかし、今地上のイエスさまとその言葉に対してどのような態度を取るかによって、終りの日に「人の子」とどのような関わりに入るのかが決められると言います。そうであれば、イエスさまと「人の子」は別の人格ではありえません。
イエスさまとその言葉を「恥じる」という表現については、同じ事柄についてルカ12章8-9に伝承されている御言葉がその意味を明らかにしています。これは、「(仲間であると)言い表わす」とか「告白する」の反対で、「(知っている者を)知らないと言う」とか「否認する」ことです。まさにペトロがイエスさまの裁判の時に取った態度です(マルコ14章72)。そして、ルカ12章8が明言しているように、地上のイエスさまを告白する者は、「人の子」が栄光の中に顕れるとき、「人の子」に属する者として受け入れられ、その栄光に与るのです。
今は「神に背いた罪深い時代」です。イエスさまを憎み罵倒する群衆の面前や、神の支配を認めようとしない人間の法廷で、今イエスさまを告白するか否認するかが来たるべき栄光に与るか否かを決めるのです。彼らにとって、終末信仰とは現在の命をかけた事柄なのです。そしてこのことは、「この時代」だけでなく、イエスさまに反抗する「この世」に生きるすべての者にとって同じです。
祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまの語られたきょうの御言葉を通して、信仰の何たるかを示してくださったことを感謝します。古き肉の自我を捨ててイエスさまの後に従えるよう、御言葉と聖霊によってわたしたちを新しく生きる者としてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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