15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
皆さん、新年あけましておめでとうございます。お正月の朝に皆さんとご一緒に礼拝を献げることができますことを感謝いたします。
《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》
(21)とあります。
クリスマスは12月25日にお祝いすると教会の暦で定められてからは、その8日目は新年の1月1日となりました。今日は、イエスさまが律法の規定に従って、生まれて8日目に割礼を受け、天使が告げたとおりその名をイエスと名付けられたことを記念する日です。新年を迎えても教会は、イエスさまのご降誕によって、神が人間を救おうとされる決意が現実となったことを祝います。
本日はこの21節の御言葉が私たちに伝えるメッセージについて思い巡らしたいと思います。
この日イエスさまが受けた割礼とは、男性の陰茎包皮を環状に切断する手術のことです。この割礼は、神と契約を結び、神の民とされたとき、イスラエルのすべての男子が受けるように命じられたものでした。創世記には、こう記されています。《あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。・・・それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる》
(創世記17章10~13)。こうして、割礼を受けることは、神の民に属する者の印となったのです。
歴史的に見れば、この割礼という習慣は、元々は古代エジプトから始まり、それをイスラエルの民も受け入れていったものです。とくにバビロン捕囚時代、イスラエル人のアイデンティティを確保するために、割礼と安息日を堅持し、その後もそれを民族の誇りとして継承していきました。こうしてユダヤ民族が誕生したのです。
イエスさまは救い主として生まれたとはいえ、割礼を受けたことは、ユダヤの慣習のもとに生まれたことを意味しています。本来、イエスさまには、割礼はまったく必要のない儀式でしたが、割礼を受けたのは、イエスさまが、私たちの負わなければならない律法の不自由さを、この割礼においても、同じように負うためでした。イエスさまは、旧約聖書に約束されたメシア(救い主)として、その伝統を守るユダヤ民族の只中に乙女マリアの胎内から生まれてきたのです。使徒パウロは《しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました》
(ガラテヤ4章4)と書いています。
キリスト者にとっては、洗礼が割礼に代わって、天地創造の神の民の一員であることの印となりました。実は、キリストを信じる者に割礼は必要ないということは、当初は自明のことではありませんでした。イエスさまはユダヤ民族の一員としてこの世に来て、旧約聖書に約束された人間の救いを実現したのですが、その救いを受け取ることができるのは旧約の伝統を受け継ぐユダヤ民族である、だからそれに属さない異邦人は救いを受け取れるためにまずユダヤ人にならなければならない、つまり割礼を受けなければならないと考えられたのです。
初期のキリスト教会の中で、この考え方に異議を唱えて割礼不要論を展開したのが使徒パウロでした。彼は、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエスさまを救い主と信じる信仰によってであると主張しました。
こうして割礼を施された赤ちゃんは、「イエス」と名付けられました。次に、人間として生まれた神のひとり子に付けられた「イエス」という名前についてみていきましょう。
乙女マリアが聖霊の力によって身ごもる前の段階で、生まれてくる子には《イエスと名付けなさい》
(マタイ1章21、ルカ1章31)と天使からの指示がありました。
「イエス」という名は、モーセの後継者として民を約束の地に導き入れた「ヨシュア」と同じ名です。この名は、ヘブライ語で「主は救いである」という意味です。ユダヤ人にはありふれた名前ですが、ここでは主の使いがそう名付けよと言うのですから、イエスという名は、この子が「救い主」であることを意味する名となります。
イエス(主は救いである)という名はすべての人類に対して向けられているのです。イエスさまは、ユダヤの下層の人々の間に人間として生まれ(受肉し)、彼らと同じ生活をし、受け入れ合い、仕え合いました。それが、神が私たち人間を愛する仕方でした。イエスさまは「救い主」としてのご自身の生き方を貫いたことで、ユダヤの指導者から憎まれ、十字架上で磔にされます。しかし、神はイエスさまを復活させ、イエスさまは今も私たちと共におられます。イエスさまは《インマヌエル》
(マタイ1章23)、すなわち「神は我々と共におられる」あるいは「我々と共におられる神」なるお方です。それがイエスさまの「主は救いである」という名前を体した生き方です。
ヨセフにこの名を付けなさいと命じた天使は、その理由として、その名前の意味も告げています。《この子は自分の民を罪から救うからである》
(マタイ1章21c)。
「神が民を救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放することを指すという理解が普通でした。ところが、ここでは救われるものが国の外敵ではなく、罪であるということに注意する必要があります。
キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものを指します。それは、自分の造り主である神への不従順です。もちろん世界には悪い人だけでなく良い人もたくさんいます。しかし、良い人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないという現実があります。その意味で、キリスト教は「人間はすべて罪びとだ」と言うのです。
それでは、神は人間をどのようにして罪から救い出すのでしょうか。神はそれをひとり子イエスさまを用いて行われました。イエスさまは、人間に向けられている罪の罰を全部人間に代わって請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。神のひとり子として、神の意思を体現する方であったにもかかわらず、神の意思に反する者すべての代表者であるかのようにされたのです。誰かが身代わりとなって神の罰を真に受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。私たち人間が罪の呪縛から解放されるために、御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なる神と、神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を実現して私たちに救いをもたらしてくださった御子イエスさまは永遠にほめたたえられますように。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが名付けられた今日から始まるこの新しい一年を、「主イエスこそは救い主である」と信じてイエスさまと共に歩む私たちの上に豊かな祝福がありますように。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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