13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
冒頭に《そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた》
(13)とあるように、イエスさまの道備えをする洗礼者ヨハネが先ず現れ、次いでいよいよイエス・キリストが現れました。
ヨハネは、ユダヤの荒れ野のヨルダン川のほとりで、《悔い改めよ、天の国は近づいた》
(2)と語り、人々に、悔い改めの印としての洗礼を授けていました。人々はヨハネのところに来て、自分の罪を告白して洗礼を受けたのです。洗礼は、罪人が悔い改めて神の赦しを受けることを示す象徴的な儀式です。ヨハネは、洗礼を受けにやって来たファリサイ派やサドカイ派の人々に、《悔い改めにふさわしい実を結べ》
(8)。さもないと、差し迫った神の怒りを免れることはできない、と厳しく語りました。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、何か良い行いをして救いに相応しい者になることではなくて、自分は神に赦していただかなければ救われ得ない罪人であることを心から認め、ひたすら神の赦しを求めることです。それこそが、本当の意味での悔い改めです。
いよいよ人々の前に姿を現わしたイエスさまが、真っ先にしたのが、ヨハネのもとでこの洗礼を受けることでした。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして、《わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか》
(14)と言います。ヨハネは、自分は水で洗礼を授けているが、《その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》
(11)とも言っています。つまり、自分の後から来る方こそ、本当の意味で洗礼を授る方だということです。ところが、イエスさまは自分から洗礼を受けようとします。
ヨハネは、イエスさまが自分(ヨハネ)から洗礼を受けるのは相応しくないと言います。それは、「あなたこそ洗礼を授けるべき方であって、私はむしろあなたから洗礼を受けるべき者です」ということです。つまり、「私はあなたに洗礼を授けていただいて、救ってもらわなければならない者です」ということです。私たちも、このヨハネのように、自分はイエスさまから洗礼を受け、イエスさまに救ってもらわなければならない者だ、ということをはっきりとわきまえることが大切です。
洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたヨハネに対して、イエスさまは《正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです》
(15)と答えます。イエスさまが洗礼を受けたのは、それがイエスさまにとって必要だったからではなくて、それが人間として正しいこと、なすべきことだからです。イエスさまは、人間がなすべき正しいことをすべて行なおうとしているのです。神に罪を告白して、悔い改め、赦しを願うことの印として洗礼を受けることは、人間がなすべき最も基本的なことです。イエスさまは、そのことを、私たちの先頭に立ってしてくださったのです。ヨハネはそのことに驚きました。それは彼が思い描いていた救い主の姿とは違ったからです。しかし、イエスさまはそういう救い主として歩み始めようとしていたのです。
ヨハネはイエスさまの言葉に従って、イエスさまに洗礼を授けました。イエスさまが水から上がると、《天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった》
(16)。すると《そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から声が、天から聞こえた》
(17)。「これはわたしの愛する子」という、この声は、ヨハネを始めとしてそこにいる人々、イエスさまの受洗を目撃した人々に対して語られています。そこには、この福音書を読んでいる私たちも含まれるのです。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、本日の旧約聖書の言葉とつながっています。《見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す》
(イザヤ42章1)。イザヤ書において神は、み心に適う僕を指し示して、この人を見よ、この人によってこそ私は救いを実現すると言います。その救いは、このイエスさまによってこそ実現するのだと宣言しているのです。
それでは、イザヤ書に示されている「主のみ心に適う僕」は、どのような救いを実現すると預言されているでしょうか。
イザヤ書にはこの42章以降に、「主の僕の歌」と呼ばれる詩が4箇所あります。そこには、主の僕が、人々の罪を代って背負って苦しみを受け、罪人の一人に数えられ、殺される。そのことが、多くの人の罪の赦しのためのとりなし、贖いとなり、その主の僕の受けた傷、苦しみによって、罪人への救いが与えられる、と語られています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、このイエスさまこそ、イザヤ書が預言している「主のみ心に適う僕」であることを告げているのです。しかも、ここには、神がご自分の愛する独り子を、罪人たちの救いを実現する主の僕としてこの世に遣わしたということが、そして、イエスさまが私たちの罪を背負って苦しみを受けて死ぬ生涯を送っていくことが暗示されています。
ここで、イエスさまがヨハネから悔い改めの洗礼を受けたことの意味がさらにはっきりと示されます。イエスさまは神のみ前で罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けましたが、さらに、罪人である私たちがなすべき最も大切なことを真っ先に行なったイエスさまは、その生涯の最後に、私たちの罪をすべて背負って、私たちに代って、十字架にかかって死なれました。そのことによって、私たちの罪の赦しのための贖いを成し遂げたのです。罪を告白して悔い改めの洗礼を受けるのは、神の赦しを願い求めるためです。その罪の赦しを、十字架の死によって実現するために、イエスさまはこの世に来て、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けることによって、救い主としてのみ業を始めたのです。
ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、私たちの悔い改めの先頭に立った神の独り子イエスさまは、十字架の死と復活によって、私たちの罪の赦し、救いを実現してくださいました。そして、私たちをその救いにあずからせるために、ご自身の洗礼を定めたのです。そのことが、この福音書の最後に語られています。復活して永遠の命を生きているイエスさまが、弟子たちを全世界へと遣わすに際して言われたのです。《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》
(28章18-20)。今や私たちには、復活した主イエスが定めてくださった、父と子と聖霊の名による洗礼が与えられています。これこそヨハネが、《わたしの後から来る方は・・・聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》
(11-12)と言っていた洗礼です。
この洗礼は、悔い改めの印であるだけでなく、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命、永遠の命にあずかることの印でもあります。洗礼を受けたイエスさまに、父なる神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言してくださいました。イエスさまが定めた洗礼を受けることによって、神は私たちにも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言してくださいます。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は洗礼を受けことによって、さらには十字架の贖いによって、救いの道を開いてくださいました。この恵みにあずかる洗礼に生涯とどまれますよう、私たちを日々導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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