Sola Gratia

言は肉となった

14言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

クリスマス、おめでとうございます。この一年も守られて、いま共にクリスマスの祝いの礼拝をささげることのできる幸いを、心から感謝しています。

本日の聖書箇所に《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》(14a)とありました。この「言」は、1章1節に《初めに言があった》(1a)と言われていたその「言」です。そして、《この言は神と共にあった。言葉は神であった》(1b-c)と語られて、さらに、《万物はこの言によって成った》(3)とも言われます。14節は、天地万物を創造したまことの神である言、その言が「肉となって、私たちの間に宿られたと語っているのです。それはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは、天地の造り主であり、まことの神である「言」が肉となって、つまり一人の人間となって、この世を生きてくださった方なのです。

14節の後半には《わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(14b-c)とあります。「言」が肉となって私たちの間に宿ったので、私たちはその栄光を見ることができたのです。「その栄光を見た」というのは驚くべきことです。旧約聖書以来、人間は神の栄光を見ることはできない、それを見たら罪ある人間は死んでしまうと語られていました(出エジプト19章21,33章20など)。その神の栄光を私たちは見ることができた。それは、神が肉となってこの世に来てくださったからです。ご自身が神である「言」が肉となって、一人の人間としてこの世を生きてくださったので、その方を見ることによって神の栄光を見ることができたのです。18節もそれと同じことを語っています。《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(18)。いまだかつて神を見た者はいない。それは、神は本来見ることができない方だからです。神ご自身も、その栄光も、人間が直接見ることはできないのです。

しかし、父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストが肉となり、人間としてこの世を生きて、神を示してくださったので、このイエスさまによって、人間が神を知り、神の姿を見ることができるようになったのです。イエスさまは、《わたしを見た者は、父を見たのだ》(14章9)と語っています。父なる神は人間の目で見ることのできない方ですが、イエス・キリストが肉となってこの世に来てくださったことによって、私たちも神を見ることができるようになった、神と共に生きることができるようになったのです。クリスマスとは、そんな圧倒的な力をもっている出来事なのです。

けれどもそれは、イエスさまが人間としてこの地上を生きていた間だけの話だろう、と思うかもしれません。イエスさまと共に生きていた弟子たちは、確かにイエスさまを見たことによって父を見ることができたかもしれない、しかし私たちは今、イエスさまをこの目で見ることはできない、父なる神と同じくイエスさまも、私たちにとっては目に見えない存在だ。だから私たちは神を見ることも、神の栄光を見ることもできない。そう思うかもしれません。しかしそれは違います。私たちは今、この地上で、イエスさまと会うことができるのです。イエスさまによる救いの恵みを感じ取ることができ、イエスさまとの交わりに生きることができる場が、私たちには与えられているのです。

それが、イエス・キリストの体である教会です。教会において、私たちは肉となって私たちの間に宿った「言」であるイエスさまと会うことができるのです。父の独り子としての「恵みと真理とに満ちている」イエスさまの栄光を見ることができるのです。その教会とは建物のことではありません。洗礼を受け、キリストと結び合わされた者たちの群れが教会であり、その群れが共に集って礼拝をするところに、キリストの体である教会が目に見えるものとなっているのです。礼拝において私たちは、イエス・キリストと出会い、イエスさまの栄光を、父の独り子としての、恵みと真理に満ちている栄光を見ることができます。つまり、まことの神である「言」が肉となって私たちの間に宿ってくださったという恵みの出来事は、イエス・キリストが人間としてこの地上を生きていた間だけのことではなくて、イエスさまの十字架の死と復活、そして昇天の後、聖霊が弟子たちに降って地上にキリストの体である教会が誕生した、あのペンテコステ(聖霊降臨)の出来事において受け継がれ、その後の教会の歴史において継続されていったのです。

肉となってこの世を生きてくださった「言」であるイエス・キリストは、教会において、その礼拝において、今も私たちの間に宿ってくださり、私たちにご自身の栄光を示し、私たちと共に生きてくださっているのです。この地上にキリストの体である教会が存在していることにはそのような意味があるのです。

その教会を通して、無数の人々が、《わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(14b-c)ということを体験してきました。また、《わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた》(16)ということを味わってきました。その恵みは、モーセを通して与えられた律法とは違うものです。《律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである》(17)。自分の力で律法を守り、正しい良い行いをすることによって救いを得るというのではなくて、イエス・キリストを通して現れた恵みと真理によって生かされてきたのです。つまり、神の独り子であるイエスさまが人間となってこの世を生きて、私たちのすべての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んでくださったことによって、神が私たちの罪を赦してくださり、またイエスさまの復活によって私たちにも、復活と永遠の命を約束してくださった、それが、イエス・キリストを通して現れた恵みと真理です。《神は、その独り子をお与えになったほどに》(3章16)、罪人である私たちを愛してくださっているという恵みと真理が、イエス・キリストを通して現されたのです。今、この礼拝に集っている私たち一人ひとりにも、肉となって私たちの間に宿ってくださったキリストが出会ってくださり、父の独り子としての、恵みと真理とに満ちている栄光を見させてくださっているのです。

そのことは、教会の礼拝において自動的に起きることではありません。教会はキリストの体ですが、それは、そこにおいてキリストが常に指し示され、キリストこそが主であり教会の頭であることが証しされていることによって、そこに聖霊なる神が働いてくださってこそ実現するのです。弟子たちが集まっただけで教会が生まれたのではなくて、聖霊が降ったことによって教会が誕生したように、私たちが集まって礼拝をすればそこに教会ができるのではありません。聖霊なる神が私たちの内に宿り、働いてくださることによってこそ、キリストの体である教会が築かれるのです。そのことが起るために、私たちは、肉となってこの世を生きてくださったまことの神であるイエス・キリストを常に指し示し、証ししていかなければなりません。

それをしたのが、洗礼者ヨハネでした。《ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」》(15)とあるように、ヨハネは自分の後から来られるイエス・キリストこそが救い主であることを証ししました。自分は救い主ではないこと、救い主の備えをする者に過ぎないことをはっきりと語ったのです。教会もこのような証しに徹することによってこそ、キリストの体として歩むことができます。教会がこの世にあって、肉となって人となられたイエス・キリストこそがまことの神であり救い主であることを証しし、宣べ伝えていくとき、そこに、まことの神であるイエスさまと出会い、その独り子としての栄光を見て、その救いにあずかる人々が興されていきます。イエス・キリストを通して現れた恵みと真理とによって人々が新しく生かされていくのです。

あの二千年前の出来事によって私たちに与えられた恵みの中に、私たちは今も生きているのです。この恵みを共々に喜びたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御独り子に人性を取らせ、私たちの内に来させてくださいました。そして、その恵みによって私たちを清め、再生させてくださいました。神の子とされた私たちをつねに聖霊によって新しくしてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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