Sola Gratia

幸いな人

1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

イエスさまが山に上り座られると、弟子たちが近くに集まりました。そこでイエスさまが最初に教えられたのは「幸い」についてでした。《心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである》(3)に始まって、八種類の幸いな人々が呼びかけられます。これを教会では「八福の教え」と呼んだりします。イエスさまは《悔い改めよ。天の国は近づいた》(3章2)と呼びかけて宣教を始めました。そこで、イエスさまと共にやってきた天の国に入る人々は幸いだ、と救いを求めて神の国を待ち望んでいる人々に続けて呼びかけます。ですから、幸いなのは、イエスさまの呼びかけに応えて悔い改めた人々です。天の国は、罪を悔い改めて神に立ち帰る、イエスさまの弟子たちのものなのです。

3節から10節に展開される八種類の人々は、前の4種と後ろの4種に分けることができます。前の4種は、苦しみの中にあって神の憐れみを受ける人々。後の4種は神の御心を宿して忍耐強く生きる人々です。悔い改めの消極的な面と積極的な面と言えると思います。「八福」と数えられた八種の信仰者の有り方を、一つひとつ心に留めておくことも意義あることと思います。

最初に掲げられた《心の貧しい人々》(3)とは、心に悩みや苦しみを負う人々のことを指しています。人に誇るような賜物も持たないこと。さらに進めば、誇りを奪われてしまったが故に、神の前で空っぽにされてしまった人のこと。真の意味で、へりくだる人のことです。《天の国は、その人たちのものである》。天の国を神からいただくのは空っぽの人です。欠けているからこそ補っていただくことができます。イエスさまの言葉がへりくだる人の心に留まる余地を見出します。イエスさまは貧しい人々のところに幸せをもって来られた救い主です。

《悲しむ人々》(4)とは、嘆いている人々、喪に服した人々のことです。旧約のイスラエルの民は自分の国をもつようになると真の神から離れて偶像礼拝に走りました。預言者たちが度々その罪を指摘し、滅びを招くとの警告を発したのにも関わらず、王を初めとする国民は悔い改めることなく、ついに神の裁きを招いて国は滅びました。敵の軍隊に蹂躙されて壊滅した都から、また祖国を負われた捕囚民たちから発せられた嘆きの声には、ようやく悔い改めの兆しが見えるようになりました。こうして罪の裁きに服した民の嘆きに応えて、神は預言者を通じて慰めを語りました。

悲しむ人々は貧しい人々です。命すら自分のものにはならないことを知っています。しかし、嘆き悲しむ人は命を与える神によって《慰められる》のです。イエスさまは、神の元から来られた真の慰めです。

《柔和な人々》(5)とは、日本語で感じ取られるような物腰の柔らかい優しさを直接指してはいません。旧約聖書では「貧しい」ことと同義です。そして、「謙遜」とも訳されます。柔和な人々とは、謙遜という徳を身につけたというよりも、貧しくされた、苦しめられた、卑しくされた人のことです。暴力を振るおうにも、振るうことすらできない無力な人々が「柔和な人々」です。

「柔和な人々」のモデルは、まずイエスさまです。イエスさまは疲れた者に重い軛を負わせてこき使う暴君ではない「柔和な人」です(11章28-30参照)。その軛は「休ませるため」のものですし、イエスさまご自身が、柔和な、無力にされたという意味での、やさしいお方です。それは力を誇示したり、権力に与することとは無縁な、人間の弱さを自ら知る人です。その弱さを受け入れ、イエスさまと共に生きる決意をする者たちは《地を受け継ぐ》と約束されます。

《義に飢え渇く人々》(6)とは不正に苦しむ人々です。食糧の欠乏から来る飢え渇きにも似た、不正義のために生命と尊厳が失われる危機にある人々です。

義が失われた世界に生きていながら、飢え渇きを感じないのが私たちの暮らす社会なのかも知れません。個々の人間の、また人の社会の不正に目を留めると、義に飢え渇く人々はそのまま絶望に満たされそうです。けれども、イエスさまは《その人たちは満たされる》と告げています。義は神の賜物であって、人間にはそもそも義を生み出す力がありません。そこへ神はイエスさまを送ってくださいました。イエスさまが罪人に代わって完全な義を達成され、人の間に義を生み出す力となられます。

《憐れみ深い人々は、幸いである》(7)とイエスさまは言われます。ここからは、神の言葉をまっすぐ受け止めて生きる人々のことが取り上げられます。「憐れみ深い人々」とは、隣人の困窮に接して、心を動かし、手を伸ばすことができる人。その人々は、真の神を、その「憐れみ」を通して知っています。憐れむ人々は、神と共にある人々であって、神の国がそこに訪れています。そして、憐れみ深い人々が《憐れみを受ける》のです。人への憐れみに突き動かされて生きている小さな人々が、神によって蔑ろにされることはありません。

《心の清い人々は、幸いである》(8)と言われます。この「清さ」で問われているのは、神に向かう心の姿勢です。心に分裂がなく、きれいに一つに纏まって、しっかりと神と向き合っている状態。これが「心が清い」ということです。

しかし、人は自分で自分を清めることができないと、聖書は昔から語っています。主イエスさまと議論したファリサイ派の人々はこの真実を認めることができませんでした。罪に汚れた心を悲しんで神の御前に謙ることがありませんでした。その無自覚は、汚れた人々を嫌悪し、切り捨てようとする彼らの誤った信仰的努力の内にもっとも顕著でした。

高みを目指し、深みもしくは低さを見限った、一部のファリサイ派の人々は、「神を見る」ことに失敗しました。つまり、そこにおられる、神を映し出すお方、イエスさまを認めることができませんでした。しかし、清い心に憧れながらも、自分の罪の汚れに打ち砕かれた人々は、自分を尋ねてこられたイエスさまに《神を見る》のです。そして、信じて、罪を悔い改めました。悔い改める心が、清い心の始まりです。

《平和を実現する人々》(9)とは、無秩序・混沌の支配する闇の中に、平和を生じせしめる創造的な働きをする人々です。

天地創造において神は平和な世界をお造りになりました。しかし、それは人間の堕落によって腐敗してしまいました。そこで世界に再び平和を造り出すのは、やはり神の創造的な働きによります。神は罪ある世界を憐れんで、ご自分で始められた創造を終末の完成であるシャローム(平和・平安)に導かれます。そうした神の創造的なお働きに参与する人々が、平和を造る人々です。

イエスさまがその先頭に立って平和を造り出してくださいます。イエスさまは帝国の指導者たちのように、武力で諸国民を圧倒するという方法は取りません。むしろ、力を棄て、十字架上で命を棄てることで、平和を実現されます。イエスさまは不義によって目的を達成するという道を選ばず、憐れみと真実に生きて、力のない人々に寄り添い、正義によって平和を実現します。こうして、平和を造る人々は、イエスさまトと一つに結ばれて、《神の子と呼ばれ》ます。

最後は、《義のために迫害される人々》です。「迫害」とは、宗教上の理由でいわれのない暴力的な差別を受け、社会的な抑圧や排斥による被害を受けることですが、聖書の言葉どおりに言うと「追われること」です。迫害の最中にあって、苦しみながら忍耐をして、神への信仰を保ち続けるのは聖書から示される信仰の特質です。そして、そこには神の約束があり、迫害する者への報復が定められていました。神はそこへイエスさまを送って、神を信じながらも力のないものとされた人々に天の国を保証されました。

義のために命をかけた人々の先頭に立つのはイエスさま御自身です。イエスさまは、他の人間では為し得ない、神の律法に完全に従うことで、義を全うし、そのために命をささげたお方です。罪人たちはこの真の義人をこぞって迫害しましたが、このお方によって神の義が人間にもたらされました。また、イエスさまは、ご自身の復活によって、義人に与えられる報酬を明らかにされました。この義は、信じることによって与えられる無償の恵みですから、イエスさまを信じる人々はすべてイエスさまの名のもとで義人とされます。義のために迫害される人々とは、イエスさまを信じて、イエスさまの義に生きる人々です。それはイエスさまが十字架にかからねばならなかったように、人々の迫害を受けます。けれども、そうした迫害にあっても、イエスさまの道を行き始めた義人たちは、この世に義をもたらすために神に召された人々として、善き生活へ向かいます。

イエスさまは、こうして幸いを私たちのところに携えてこられた救い主です。信仰の価値はこの世では十分な評価を得られないかも知れません。けれども、《喜びなさい、大いに喜びなさい》(12)、とイエスさまは言います。神を信じることで、あなたは幸せを選んだのだということをイエスさまは保証してくださいます。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは貧しい私たちを顧み、御子イエスさまによって天の国へと導いてくださる恵みに感謝いたします。イエスさまの弟子とされた喜びをいつも保ちながら、様々な困難に直面する信仰の歩みをまっとうさせてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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