31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
きょうの御言葉は、こう始まります。《イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」》
(31)。この言葉は、イエスさまの語ったことを聞いて信じた多くの人々に語ったものです。それは、イエスさまの言葉を聞いて一旦は弟子になっても、イエスさまのもとを去って行った人々がいたからです。
イエスさまの本当の弟子になるとは、イエスさまのように献身的に人のために尽す人になる、ということではありません。イエスさまの弟子とは、イエスさまのみ言葉にとどまる者、御言葉を常に聞き続ける者です。私たちはしばしば、御言葉を聞くのではなくて、自分で、イエスさまのみ心はこれだと決めてしまいます。実は自分の思いでしかないことをしているのに、自分はイエスさまに従っているのだと思い込んでしまうのです。しかしイエスさまに従うとは、自分の思いではなくて、イエスさまのみ言葉を聞いて、それによって自分の思いを変えられていくことです。自分の意志や力でイエスさまのようになろうとすることによっては、本当の弟子になることはできません。イエスさまの弟子となるために先ず第一にしなければならないことは、御言葉を聞くことなのです。
イエスさまの言葉にとどまり、本当の弟子となると、私たちはどうなるのか。イエスさまは、《あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする》
(32)と言います。イエスさまの御言葉にとどまるなら、私たちは真理を知ることができる。そしてその真理が私たちを自由にするのです。イエスさまの弟子となることによって、私たちは自由になることができるのです。
しかしこれを聞いたとたんにユダヤ人たちは反発しました。《すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか』》
(33)。アブラハムは、神の選びと召しに応えて神の民イスラエルの最初の先祖となった人です。つまり「わたしたちはアブラハムの子孫です」というのは、アブラハムが神に選ばれたように、その子孫である自分たちも「選ばれた民」であるというユダヤ民族の誇りを表わします(創世記12章2, 詩105編6, イザヤ41章8)。ユダヤ人たちは、今まで誰かの奴隷になったことなどないという自負を持っています。しかし彼らが奴隷になったことはないというのは事実ではありません。イスラエルは、バビロニアによって国を滅ぼされ、多くの者が捕囚となったことがあったし、今も、事実上はローマ帝国に支配されているのですが、彼らの自負が自分たちの不自由な状態を認めさせなかったのでしょうか。
しかしイエスさまがここで、あなたがたは奴隷状態にあると言っているのはそのような政治的な意味ではありません。イエスさまは《はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である》
(34)と言いました。罪の奴隷となっていることは、政治的な奴隷状態よりもずっと見えにくいことです。私たちは、自分が罪を犯していることを知っています。あれこれの罪が自分にはあるということは、誰でも認めます。しかし自分が罪の奴隷になっているとは思っていません。しかし、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」というイエスさまのみ言葉を、「そんなことはない」と聞き流すことなくそこにしっかり留まって、よく分からないなと思いつつもそれを聞き続けることが、イエスさまの本当の弟子として歩むことなのです。
自分が罪の奴隷なのかどうかは、罪を抜け出せるかどうかで分かります。私たちが罪の奴隷ではなくて自由な者であるならば、その自由によって罪と戦い、それを克服することができるはずです。それができずに、どうしても罪に陥ってしまうならば、自分が罪の奴隷となっていることを認めるべきでしょう。
しかしイエスさまが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言ったのは、私たちに罪の支配から抜け出す道があることを示そうとしたからなのです。それが、《真理はあなたたちを自由にする》
(32)というお言葉です。あなたたちは、自分では罪の支配から抜け出すことができない、罪の奴隷とされてしまっている、しかし真理は、あなたたちを罪の支配から解放し、自由を与えるのだ。あなたたちは、自分の力によってではなくて、真理によって解放されることによってこそ、罪の奴隷状態から抜け出すことができるのだ、とイエスさまは言っているのです。ユダヤ人が神礼拝をすることは奴隷状態からの解放であると信じるのは正しかったのです。ただし、この解放、自由にあずかるには、自分が罪の奴隷となっていることを認めることが必要なのです。
真理が私たちを罪の支配から解放する、その真理とは何か。そのことが35節以下に語られます。《奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる》
(35)とあります。これは、罪の奴隷のことを言っているのではなくて、家の奴隷と家の息子との違い、という新しい話になります。
奴隷は主人の必要によって家にいることを許されているに過ぎません。必要がなくなれば、売り払われてお金に換えられてしまいます。しかし子は、必要かどうか、役に立つかどうかではなくて、家族の一員としてそこにいるのです。子は、役に立つかどうかという価値によってではなくて、その存在そのものが愛されている、だからいつまでも家にいることができるのです。子は奴隷とは違って自由な者です。その自由は、愛されているということと一つなのです。奴隷と違って子は、自分がどれだけ役に立つか、貢献できるか、価値があるか、ということと一切関係なく、自分は愛されてここにいるということを知っているのです。そこにこそ本当の自由があります。自分が愛されていることを知ることなく、欲望のままに好き勝手なことをしているのは、自由ではなくてただの我儘であり、それは罪の奴隷状態の一つの現れでしかありません。
イエスさまは、父なる神に愛されている者としての自由によって、人間となってこの世に来てくださいました。それは、罪に支配され、罪の奴隷となってしまっている私たち人間を罪の支配から解放し、自由を与えるためです。父なる神の、私たちに対する憐れみのみ心、私たちを救おうとする恵みのみ心を、イエスさまはその自由によって受け止め、その救いを私たちに与えるために人間となってこの世を歩んでいます。それだけでなく、私たちの罪をすべてご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けようとしているのです。父なる神に愛されていることを知っている独り子イエスさまは、その自由によってご自分から十字架の苦しみと死への道を歩み、それによって私たちを罪の奴隷状態から解放して、私たちをも神に愛され、自由に生きる者としようとしているのです。このことを語るのが、《だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる》
(36)という御言葉です。
神の独り子であり、本当に自由な方であるイエスさまこそ、私たちを本当に自由にしてくださるお方です。ただひとり罪に支配されていない自由なお方であるイエスさまが、私たちの罪を背負って十字架にかかることによって、私たちの罪をすべて帳消しにして、罪の支配から解放して、私たちをも神の子、神に愛されている者としてくださるのです。独り子なる神イエスさまによるこの救いにあずかることによって、私たちは自分がどれだけ役に立つか、どれだけ価値があるかによってではなく、神に愛されて生きている者とされるのです。独り子イエスさまをこの世に遣わした父なる神が、私たちに、わたしはあなたを愛している、あなたがどういう者であり、何ができるか、どれだけ貢献できるかによってではなく、あなたの存在そのものを愛している、そしてあなたに、私のもとに留まり、わたしと共に生きて欲しいと願っている、と語りかけているのです。このみ言葉を聞くことによって、そしてこのみ言葉のもとに留まることによって、私たちは、本当に自由な者となることができるのです。自分の力では罪の支配に打ち勝つことのできない私たちが、そこから解放されて、神の愛によって与えられた命を喜んで感謝しつつ生きる者へと、神と人とを愛することができる者へと、変えられていくのです。
32節には《真理はあなたたちを自由にする》
とあり、36節には《子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる》
とありました。私たちを自由にする真理とは、神の独り子イエス・キリストのことです。イエス・キリストによって神が与えてくださっている救いの真理です。その真理を一言で言い表しているのが、この福音書の3章16節の言葉です。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》
。これが真理です。この真理が、私たちを本当に自由な者とするのです。この真理を知るために、私たちはイエスさまのみ言葉に留まらなければなりません。み言葉を聞くことによってこそ、父なる神がその独り子を与えてくださったほどに私たちを愛してくださっていることを知ることができます。また、独り子イエスさまが、神の子としての自由によって、私たちのために人間となり、十字架の苦しみと死とを引き受けてくださった、その恵みを知ることができます。
そこには、神が無条件で愛してくださっていることを知っている者のみが生きることのできるまことの自由があります。その自由によって私たちも、イエスさまがしてくださったように、私たち自身を神さまに献げて、神を愛し、隣人を愛して生きる者へと変えられていきます。私たちも本当にイエスさまの弟子とされていくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは教会の頭であるイエス・キリストによって、教会に真理の証し人を興してくださいます。世にある教会が絶えず改革されることによって、あなたの福音の光をつねにすべての人に輝かせてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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