Sola Gratia

皇帝への納税

15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

ファリサイ派の弟子たちとヘロデ派の人々がイエスさまに尋ねました。《先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか》(16-17)。これはお世辞ですが、不思議とイエスさまが真の教師であることを言い表しています。

ここで問題になっている「皇帝に納める税金」ですが、これは紀元6年にユダヤがローマの直轄支配地になると共に導入された人頭税です。それは一人一年に一デナリオン(老人と子供は免除)で、日雇い労働者の一日分の給料に相当しました。人頭税はその構造上、経済的な弱者に大きな打撃となります。この重荷はローマ支配下にあったユダヤの人々の生活に重くのしかかっていました。ですから多くの民衆は納税には否定的でした。

しかし、納税の問題には、さらに大きな宗教上の問題があったのです。納税に用いられるのは、ローマのデナリオン銀貨です。そこには皇帝ティベリウスの肖像が刻まれると共に、「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」という言葉が刻まれていました。つまり、そこには政治的権威だけでなく、その神的権威の主張が刻まれていたのです。それゆえに、そのようなデナリオン銀貨をもって、神と等しい権威を主張している皇帝に税を納めることは、民族のアイデンティティと彼らの信仰に関わる極めて重大な問題でした。

この納税に最も強く反対していたのは、ガリラヤを中心として活動していた熱心党の人々でした。熱心党は、異教の支配者であるローマ皇帝に税を納めることは、その支配を認めることになり、神だけを拝むことを求める第一戒に背くことになる、皇帝に税を納めることは律法に適っていない、と主張したのです。そして、律法を守る「熱心」から、ローマに妥協する支配層のユダヤ人を暗殺したり、ローマに対するゲリラ的な武力闘争を行ったのです。ファリサイ派の人々は彼らよりは穏健でした。律法に忠実に生きようとしている彼らはもちろん納税に反対していましたが、現実的な判断から、納税拒否にまでは至りませんでした。一方、ヘロデ派は、ヘロデ王朝の再興を目指していた人たちで、親ローマの立場であり、この納税に肯定的でした。ローマに隷属するヘロデ王家を支持する彼らは、そこから少なからぬ利益を得ていたからです。

そのようにユダヤ人の間でも立場が分かれる中にあって、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いは、本来は極めて重大な意味を持つ、真面目な信仰的な問いであったはずです。しかし、彼らの目的は別なところにありました。彼らの意図は、その直前に書かれています。《それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉尻をとらえて、罠にかけようかと相談した》(15)のでした。

彼らがわざわざイエスさまの言葉尻を捕らえるための罠を仕掛ける必要があったのは、《祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスさまが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスさまを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスさまを預言者だと思っていたからである》(21章45-46)、と記されています。

要するに、イエスさまを捕らえて殺そうとしていた彼らにとって、最大の障害は群衆の存在だったのです。この状況のもとで、イエスさまを亡き者とする方法は二つに一つしかありませんでした。一つは、群衆の支持を失わせてイエスさまの敵となるようにすることです。そうすれば、群衆の騒ぎを恐れずに、イエスさまを捕らえることができます。もう一つは、イエスさまをローマ帝国に逆らう扇動者に仕立て上げることです。そうすれば、ローマの国家権力によって、合法的にイエスさまを抹殺することができます。そこで巧みに考え出されたのが、この納税に関する問いだったのです。

イエスさまがもし、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と答えたら、民衆の支持を失うことになるでしょう。彼らは安心してイエスさまを捕らえることができます。

では、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適わない」と答えたら、それは人々の反ローマ感情に火をつけ、現実に熱狂的な行動を引き起こすかもしれません。そうすればローマ軍が介入してくれます。そうならなくても、ローマに逆らうようにと群衆を扇動したと、当局に訴えることができるでしょう。このように、どちらに転んでもイエスさまは窮地に追いやられることになります。

そこでイエスさまは彼らに言いました。《偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい》(18)。彼らは納税に使うデナリオン銀貨を持ってきました。そこでイエスさまは尋ねます。《これは、だれの肖像と銘か》(20)。彼らは、現実の貨幣を前にしては、ただ事実を述べるしかありません。彼らは言います。《皇帝のものです》(21a)。するとイエスさまは言いました。《では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》(21b)。

「皇帝のものは皇帝に返しなさい」。もちろんイエスさまは、「皇帝が絶対的な権威を持っているのだから、たとえ不本意であっても税は納めなくてはならないのだ」と言っているのではありません。銀貨に刻まれている肖像と権威の主張、それは大して重要な問題ではないのです。本当に聞くべき絶対的な意味を持つ言葉は別にあるからです。それが次に来るのです。「神のものは神に返しなさい」。

皇帝の肖像が刻まれている銀貨を「皇帝のもの」と呼んだ後に、イエスさまは「神のもの」について語られました。皇帝の肖像ならぬ「神の像」が刻まれているのは、人間です。イスラエルの民は「神の肖像」(創世記1章27)です。銀貨の肖像が帝国に対する皇帝の支配を表しているように、神の像が刻まれた人間の存在は、この世界に対する神の支配を表しているのです。人間は「神のもの」です。そして、この世界もまた神のものなのです。「神のものは神に返しなさい」。納税の問題で罠にかけようとしてイエスさまのもとに来た人々に、イエスさまはいわば絶対的な意味を持つ問いを突き返したということです。「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか。神のものが神に返されることを求めて生きているか」と問い返しているのです。

ファリサイ派とヘロデ派は、こうした答えを《聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った》(22)とのことです。このときは、イエスさまを立ち去らせようという彼らの意図は、聖霊の知恵に満ちたイエスさまの言葉によって失敗に終わりました。しかし、ローマへの反逆者として訴えてイエスさまを抹殺しようとした彼らの意図は、最終的には成功します。イエスさまはローマへの叛徒としてローマ総督から死刑の判決を受けることになるのです。

実際、人間の根本的な問題は、神のものを神のものとして生きてはいない、というところにこそあるのです。すなわち、私たち人間は、この世界が本来的に人間が所有している世界であるかのように生きている、ということです。

まず神に返すべきは、神の像が刻まれている人間自身です。人間というこの「神のもの」が神のもとに回復されなければなりません。イエスさまは、そのために十字架へと向かっていたのです。「神のものは神に返しなさい」とは口先だけの言葉ではありません。罪の中にある人間が、罪を赦されて神のものとして神の手に返されるために、イエスさまは自らを投げうつ覚悟をもって語っていたのです。そのことが実現するために、自らが犠牲を払うつもりでいたのです。代価を払うつもりでいたのです。そして、事実、イエスさまは自分の命をもって代価を払われたのです。

それゆえ、私たちの為すべきことは、恵みによって神のものとされた者として、自分自身を神に献げることであり、それこそが私たちの礼拝です(ローマ12章1)。そして、神に献げられた者として、この世を神のものとして生きていくために、この世に遣わされていくのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまによって私たちを神のものとして回復してくださったことに感謝いたします。いただいた恵みの賜物を生かし用いる生活によって、あなたの恵みに報いることができますよう、私たちをお導きください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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