Sola Gratia

王子の婚礼のたとえ

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

イエスさまは、今から話すたとえ話は「天の国」についてであると言って始めます。「天」は「神」の言い換えであって、「国」は、神が王として支配するという意味です。聖書の神は人間に無関心ではなく、王として守り、治め、導く方なのです。では、その神が王として支配する、その支配はどのようなものか。それが、《ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている》(2)ということです。イエスさまは、神の支配がこの世における王家の婚宴にたとえられるほどに、喜ばしい支配であると言っているのです。

旧約聖書の時代から、神は花婿に、イスラエルの民は花嫁にたとえられてきました(イザヤ54章5)。これは、神とイスラエルの交わりが一対一の愛の関係であって、人間の世界では婚姻関係に比べることができるからです。婚宴に呼ばれる客は「イスラエルの民」であって、その代表者が「祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々」です。

このたとえ話の焦点は、王子の婚宴に招待された客の態度です。王は、まるで招待客が参加しないと婚宴が成り立たないかのように、繰り返し招待客を求めています。ここにイエスさまの伝えたいことがあります。それは、聖書の神は契約の神であり人間と共にある神であるということです。だからこそ、婚宴にたとえられる「救い」にあずかるようにと、繰り返し人を招くのです。

さて、《王は家来たちを送り、招いておいた人たちを呼ばせたが、来ようとしなかった》(3)といいます。王は前もって招いた人々に対して家来を送りましたが、人々は来ませんでした。この人たちは、王からの招きを、喜ばしい祝宴への招きとして受け止めていないのです。自分の生活、自分が中心となって生きている人生への妨害、余計なおせっかいだと思っているのです。

そこで王はふたたび家来をつかわして案内します。これは3節の強調、拡大です。王は家来たちをとおして、《すっかり用意ができています》(4)と言っています。しかも、とくに《牛や肥えた家畜を屠って》(4)いると言っていますが、この牛については、レビ記1章4節で、罪を贖う儀式の犠牲獣の筆頭に挙げられています(詩51編21も参照)。そうすると、婚宴の準備がすっかりできたというのは、罪を贖うことと密接に関係していることになります。実際、イエスさまはこのたとえを話された同じ週の金曜日に十字架にかかり、罪を贖います。ですから、まさに罪が取り除かれ、神との正しい交わりが打ち立てられるばかりになっているということです。そこで、イエスさまは、方向転換して、すなわち悔い改めて、救いにあずかるように招いているのです。

けれども人々は、王の招きを無視して、畑や商売に出かけてしまいます。まるで婚宴など無いかのように日常生活を続けます。つまり、王が自分たちを治めていること、またその王子の婚宴が行われることなどまるで無いかのように振る舞っています。さらに、家来たちを捕まえて乱暴し、殺す者もいました。

そこで、王は《軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った》(7)といいます。それほどに王の怒りは燃え上がりました。これは、イエスさまの救いを拒否し、それにあずかることがないなら、罪に対する神の怒りがどのようなものかを指し示すものです。イエスさまは、イスラエルの民の指導者である「祭司長、民の長老、ファリサイ派の人々」がそのようになって欲しくないので、ご自分の救いを拒絶する者の惨めな運命についても、はっきりと語ったのです。

ところで、王子の婚宴は中断されていません。準備は整っているのです。そこで、王は家来に《町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい》(9)と言って、新たに招きます。町の大通りは、焼き払われた町の大通りです。そしてそこにいる者たちは王の怒りを免れた者たちです。つまり、王に前もって招待を受けることのなかった者たちです。それは聖書を知らない者たちと言って良いかもしれません。具体的には、ファリサイ派の人々によって罪人とされた者たちのことであり、さらには異邦人のことです。ともかく王は「見かけた者はだれでも」連れてくるようにと言います。

こうして家来は出て行き、王の命令どおりに「見かけた者はだれでも」連れてきたので、婚宴には善人も悪人も皆集まりました。イエスさまは山上の説教の中で、《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)方であると言っています。神の御前では、またイエスさまの眼差しの中においては、この世における善人も悪人も等しく罪人であって滅ぼされるべき者でしかありません。善人も悪人も集めるのは、神自らが罪を引き受ける方だからこそ言えることで、それはイエスさまの十字架の死において起こっています。だから十字架のイエスさまを信じる「しるし」は、善人も悪人も招かれていることにあるのです。

私たちがこうして礼拝に集い、神の祝宴にあずかっているのは、私たちがそれに相応しい、立派な、もともと招かれるべき者だったからではありません。私たちはもともとは、町の大通りをただ歩いていた者です。それこそ日々自分の生活のことであくせくし、神のことなど考えずに、また隣人のことよりも自分のことを大事にして生きていた者です。神は、「誰でもいいからみんな連れて来い」と命じました。だから私たちも来ることができたのです。

このたとえは10節でひとまず結論が出ていますけれども、11節からもう一つのメッセージが加わります。これは、改めて招かれた客の中での出来事ですから、ユダヤ人たちに対してではなく、キリスト教会に向けて語られたものです。

王は宴席で《礼服》(11)を着ていない者に目を留めました。婚宴用の礼服は、招待客が自前で用意するものではありません。王が用意するものです。そこで、王は礼服を着ていない者に対して《友よ》(12)と呼びかけ、その理由を尋ねています。王は、礼服が足りなかったのか、それとも与え忘れたのかを確かめようとしたと思われます。ところがこの者は王の問いに対して沈黙しています。王が用意した礼服が足りないのでも、与え忘れたのでもないということでしょう。そうすると、礼服を与えられたのに、あえて着なかったということなります。それは、婚宴そのものを侮辱しているということです。だから王は《この者の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ》(13)と命じたのです。

婚宴で与えられる「礼服」は、イエスさまにおける神の救いを指しています。ですから、礼服を拒絶し婚宴を侮辱したあの者は、神の救いを拒絶したわけで、神の裁きがそのまま下ります。「だれでもかまわない」という王の寛大な恵みを取り違えて、招待を軽んじて無礼な振る舞いをする者は、先に断わった招待客に劣らず厳しい裁きを受けるのです。

結びの言葉です。《招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》(14)。招きは一方的で、イエスさまが招きます。しかし「選ばれる」というのは、双方向であり、交わりを意味します。イエスさまが「私」を選びます。「私」はその選びを受け入れるので、イエスさまに「選ばれた」者となります。そしてこのような関係に入る者は「少ない」のです。これは私たち、教会に連なり、礼拝を守っている者たちへの警告のみ言葉です。教会に招かれ、礼拝を守るようになったということが、それだけでそのまま、神の国の祝宴にあずかる救いを保証しているわけではありません。神の国の祝宴にあずかるには、礼服が必要です。それはお金で買えるものでも、善い行いを積み重ねることによって手に入れることができるものでもありません。神の招きを、本当に有り難いこととして感謝して、その招きにあずかることを大切にしていくことこそがその礼服なのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまの十字架をとおして私たちの罪をあがない、救いへと招いてくださる恵みに感謝いたします。あなたの招きに感謝と喜びをもって応え、日々あなたに立ち帰りつつ歩むことができるよう導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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