Sola Gratia

十人の乙女のたとえ

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

今日のたとえ話は、救いの完成を待ち望むことを教える話です。救いの時を花婿が到着した婚宴のたとえで語ることは、預言者以来の伝統です(イザヤ62章5)。また、イエスさまもご自身を花婿にたとえています(マタイ9章15)。きょうの福音は、「イエスさまの来臨」を婚礼の宴への花婿の到来という比喩で語り、その時に備える心構えを「十人の乙女」の姿を通して教えようとするものです。

ユダヤにおける結婚式の習慣は、かなり私たちのものとは違います。しかし、どの民族であっても、結婚式が「喜びの場」であることは共通しています。苦しいことや辛いことが多い毎日ですけれども、その時だけは皆が心から喜び楽しむことができる。それが結婚の祝宴だったのです。イエスさまはそのような「結婚の祝宴」をたとえとして取り上げて、私たちの未来を語っています。あなたがたの未来には大きな喜びがある。あなたがたを待っている大きな喜びは、たとえて言うならば婚宴だ。あなたがたはこの上なく大きな喜びへと招かれている。そのような話をしているのです。

救い主イエスさまの来臨を待ち望むのは、キリスト教信仰の基本的なあり方です。私たちのこの世における生活は、不安と誘惑にみちています。しかし、その中で、滅びることのないイエスさまの約束を信じて、忍耐と希望をもって、救いの完成の日、終わりの時を待ち望みつつ生きるのです。

イエスさまは、《天の国は次ようにたとえられる》(1)と言って話し始めます。「天の国」は、神の支配のことです。当時のユダヤ人の中で敬虔な人々は「神」と直接に言うことを避け、「天」と言ったわけです。「天」とは、「空」のことではなく、人間の思いよりも高きにいます「神」のことです。神が王として世を支配することを指して、「神の国」といいます。イエスさまは神の支配を婚礼にたとえて語りました。これは、弟子たちをはじめ旧約聖書に馴染んでいる人にはよく知られたイメージでした。神が花婿であり、イスラエルの民は花嫁と考えられたのです(イザヤ62章5)。それを受けて、キリスト教会は、花婿がイエスさまで花嫁が教会だと理解しました。イエスさまもご自身を花婿にたとえて語っています(マタイ9章15、マルコ2章19)。

このように神と人間の関係を結婚関係にたとえるのは、結婚関係において人は共に生き、全人格的に交わることで配偶者を知るのに似て、神を全人格的な交わりにおいて知るからです。そこで、神の支配は婚礼のように喜ばしいことであると言っているのです。

当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。式は夕刻に始まります。まず花婿が、「花婿の友人」の先導で花嫁を迎えに行きます。花嫁の家では、その行列の到着を待っています。「花婿の友人」が到着を知らせます。その時に、花嫁の家で花婿を迎える役目をしたのが「花嫁の友人」の乙女たちです。乙女たちは「ともし火」を持って迎えるのですが、時には町外れにまで出て花婿を迎えました。そしてそこで「前祝い」とでも言うべき祝宴が行われます。それから、花婿・花嫁の友人が先導し、花婿は花嫁を自分の家に連れて行きます。そこで再び盛大な婚宴が開かれることになります。婚宴は一週間続いたといいます。

「ともし火」というのは、木の小枝の束に布を巻き、それにオリーブ油などをしみこませた「たいまつ」で、火をつけるとしばらくはあかあかと燃えますが、油が切れると消えます。それで、長く持たせるには、別に油を用意して、消える前に補給しなければなりません。賢い乙女は、この補給用の油を「壺に入れて」用意していたのです。ところが、愚かな乙女は《ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった》(3)のです。

《ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった》(5)。花婿が、もう来るか、もう来るかと待っているのに、なかなか到着しないので、そのうちに待ちくたびれてしまったのです。花婿の到着が遅れているという、この状況は、私たち信仰者の置かれている状況と重なります。イエスさまの再臨がなかなか起らない、約束を信じて待っているが、だんだん待ちくたびれてしまうという中で、私たちもいつしか眠り込んでしまう、まどろんでしまう、そしてその眠りの間に、イエスさまの到来を待つ信仰の「ともし火」が消えてしまうのです。まさにそのとき、花婿としてご自分の民を迎えるために来られる「イエスさまの来臨」が起こるのです。

このたとえ話は、待っている者たちがみな眠り込んでしまうことを前提として語られています。つまり、そういうことがあるということを認めて、それでもよいと言っているのです。十人の乙女はみな、等しく婚宴に招かれていて、すでに席は用意されています。しかし、同じように招かれて同じように眠り込んでしまいながら、その十人が、《そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった》(2)、とふたつのグループに分かれます。予備の油を用意していた賢いおとめ五人は、燃えるたいまつをかざして花婿を迎え、婚宴の席に入ります。一方、油の用意をしていなかった他の五人も、たいまつをかざすのですが、すぐ油が切れて消えそうになり、油を買いに行っている間に戸が閉められてしまいます。そのように、賢く準備していた者は栄光に迎え入れられ、準備をしていなかった愚かな者は、《はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない》(12)という厳しい言葉で、外の暗闇に投げ出されます。こうして、このたとえは《だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》(13)という明確な教えの言葉で結ばれています。

その違いは、予備の油を持っているかどうかです。ただし、この予備の油は、私たちの用意周到さとか、私たちがどれだけきちんとイエスさまの再臨に備えているかということではないようです。私たちがいつも備えていることができているならば、それは「いつも目を覚ましている」ということです。しかし、この賢い乙女たちも、他の人々と同じように、弱い者であり、眠気に負けてしまう者であり、いつもちゃんと待っていることができない者だったのです。しかし彼女たちは予備の油を持っていました。その油は、そういう弱い者であっても、いざという時にはちゃんとイエスさまを迎えることができる、目を覚まして、信仰者として歩むことができる、そのことを可能にするものです。それは何なのか。

私たちが信仰において眠り込んでしまうことは、神に背き逆らうことであり、私たちの罪です。その罪人である私たちが、それでもなお信仰者として、イエスさまを喜び迎える者となることができるとすれば、それは、イエスさまによる罪の赦しの恵みによるほかありません。私たちが自分の中に持っている何らかの信仰ではなく、このイエス・キリストの恵みこそが、予備の油なのです。

この話しにはもう一点、注目すべきことがあります。油を用意していた五人は他の五人に油を分けてあげなかったことです。人道的には、共に分かち合い、ともし火の数を減らしてでも一緒に迎えたら良いでしょう。しかし、私たちはここに、お互いの人生における厳粛な一面を見なくてはなりません。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。人は他の人の代わりに生きることはできません。そして、私たちの信仰の歩みも、たとえ親子であろうと、夫婦であろうと、分けてやることはできません。私たちは、一人一人が自分の信仰を問われるのです。イエスさまの十字架が、自分のためであり、自分の罪の赦しの恵みがそこにあると受け入れるかどうかを問われるのです。愚かな乙女が賢い乙女に《油を分けてください》(8)と頼んでも、それはできなかったのです。賢い乙女が意地悪だったというのではありません。イエスさまが来られたときに備えがなければ神の国の婚宴の席に入ることはできないのです。

このたとえ話は、イエスさまの再臨をめぐって語られています。このあとイエスさまが十字架の死を経て復活をされます。そして天に昇られる。つまり、父なる神のところに帰られます。そのイエスさまが、再びこの世に来るのが再臨です。そしてそれは同時に、世の終わり、終末ということになります。

人生の終わりにせよ、世の終わりにせよ、これを悲しみや虚しさや恐怖としてしか語れないとするならば、それは実に不幸なことです。私たちは、そのような不幸な人として生きる必要はありません。私たちはすでに婚宴の席にたとえられている神の国に入る者とされています。もうすでに祝宴の用意はされています。待つことが長くなっても、希望を放棄してはなりません。「賢い乙女」として生きて、最終的に必ず神の備えた大きな喜びに共にあずかりましょう。

ですから、私たちは、そのような喜びに満ちた終わりまでを視野に入れて生きたらよいのです。婚宴に招いてくださった花婿を迎え、その御方によって大きな喜びへと導き入れられるその時までを視野に入れて生きたら良いのです。結局、イエスさまが語られた「賢い乙女たち」というのは、目先のことではなく、その先の、最終的に花婿を迎えて花婿と共に婚宴の席に入り、大きな喜びにあずかるその時までを考えている人です。救い主イエスさまが来られる。私たちは、この喜びの知らせに信頼し、従っていきたいと願うものです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまによって、救いの完成する時が来る、私たちはそこに向かって生きて行って良いと教えられたことを感謝します。私たちがその希望を持って日々の歩みを整えてゆけますようお導きください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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