1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」
きょうの聖書箇所は、1節から9節、そして少し飛んで18節から23節です。その前半個所でイエスさまのたとえが語られ、後半にその解説が語られていて、そのあいだに「たとえを用いて話す理由」が語れています。
《イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた》
(1)。しかし、人々はそんなイエスさまを放っておきません。さっそくイエスさまを見つけて、《大勢の群衆がそばに集まって来た》
(2)。するとイエスさまは、舟に乗って、そこで腰を下ろされた。そしてそこから岸辺に立っていた群衆に向かって、たとえを用いて神の国の福音を話されたのです。
このたとえ話の「種」というのは麦の種であると思われます。イエスさまは、しばしば人々の生活の中の身近なものを題材にして、神の救いについて語られました。
その種を蒔く人は、無造作にバラバラと種を蒔きます。この当時の種まきは、畑を耕してからそこに種をまくのではなく、まず種をまいてからそこを耕すというやり方でした。ですから、種は良い土地だけではなく、さまざまな所に落ちます。イエスさまは良い地の外に、道端・石だらけの所・茨の地、と三つの場所を挙げていますが、これもユダヤにおいて畑の周りに普通に見られるものでした。
ですから、ある種は道ばたに落ちて、鳥に食べられてしまった。鳥から見たら、それはエサなわけです。また、他の種が石地に落ちた。そして芽を出したのだけれども、石地ですから根を張ることができなくて、日が昇ると石が焼けて枯れてしまった。他の種は、茨の間に落ちた。茨というのはとげのある低い木で、イスラエルにはよく生えています。その種は芽を出したけれども、茨が伸びてふさいでしまった。結局、実を結ぶことはなかったのでしょう。しかし、良い地に落ちた種、これは本来のよく耕された畑に落ちた種です。その種は実を結んだ。それも、一粒から《あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった》
(8)といいます。
この前半だけを聞くなら、この話が私たちと何の関係があるのかと思います。しかし、イエスさまは《耳のある者は聞きなさい》
(9)と言って注意を促していますから、群衆はここで、イエスさまがこの種まきの話をとおして何か別のことを告げようとしているのだということに気づいたはずです。
後半は、イエスさま自身によるたとえ話の解き明かしです。ここで言われている「種」は《御国の言葉》
(18)のことです。すなわち、神の御言葉です。ですから、種を蒔く人は神またはイエスさまということです。いろいろな土地は私たち人間のことになります。そうすると、神またはイエスさまは良い土地にだけ、つまり素直に受け入れる人にだけ御言葉を与えるのではない、ということになります。実らなくても、どんな人にでも、惜しまず豊かに御言葉を与えていくのです。
種が蒔かれるように、神の御言葉が人々の間に語られ伝えられる。ところが、それがどのように人々に受け止められるかに、違いが表れてきます。いろいろの土地は、私たち人間のことになります。
イエスさまは、道ばたに蒔かれた種とはこういう人のことである、石だらけのところに蒔かれた種とはこういう人のことである、茨の中に蒔かれた種とはこういう人のことである、と順に語られています。私たちはこの説明を聞いて、「ああ、道ばたに蒔かれた種の人というのは、あの人のことだな」などと、他人のことを勝手に思ってはならないと思います。イエスさまは、そのように人を決めつけているのではありません。私たちは、自分もこの中のどの土地にもなり得る。そのように読まなければなりません。
たとえば、道ばたに蒔かれた種とは、鳥が来て食べてしまうように、悪い者が来てそれを奪い取ってしまうと言われます。だから何も生えてこないし、実を結ばない。私たちもそうなりうるのです。というよりも、すぐにそうなるのではないでしょうか。
この「悪い者」というのは、泥棒だとかのことではありません。これは悪魔、サタンのことです。私たちがせっかく御言葉を聞いても、サタンがそれを取って行ってしまう。だから心に残らないのです。自分が弱いためであるのは、その通りなのですが、イエスさまの話しでは、私たちが御言葉を聞いても、それが根を張る前に取って行ってしまう者がいるということです。それがサタンです。鳥が道ばたに落ちた種を探しているように、サタンがいつも狙っているということです。だから御言葉が私たちの心にとどまらない。私たちはどうしたらよいか。イエス・キリストの名によって、サタンに立ち去るように命じる。あるいは、聖霊にお願いして、私たちが御言葉を心に留めることができるように助けてもらうことです。聖書を読むときも、聖霊の助けを求めながら読む。そうして、サタンに御言葉の種を奪われないように助けていただくのです。
石だらけの土地に落ちた種の場合も、茨の中に落ちた種についても、これはいずれも私たちも直面する課題です。いろいろな艱難によって、私たちも教会も試練に直面します。不安に陥って、御言葉が力のないもののように思えてきます。
しかし、このようなときこそ、御言葉に耳を傾け、それを受け入れたいものです。《良い土地に蒔かれたものとは御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである》
(23)と言われています。
当時は現代とは比べものにならないぐらい、生産性の低い時代です。麦も品種改良がされていません。一粒から十粒程度、豊作だったとしても一粒からせいぜい三十粒程度が収穫できる程度だったと、農村伝道神学校でも教えた清水恵三牧師は書いています。聞いている人々は「そんなことはあり得ない。おかしい」と思ったでしょう。
しかし、イエスさまのたとえ話は、そのように「おかしい」と見えるところに、実は神の恵みが隠されているのです。そこに人間の常識と神の常識の違いが現れているからです。すなわち、神の御言葉は、人間の常識を超える豊かな実を結ぶという、驚くべき約束が語られているのです。種まきは数々の困難に遭い失望することがあるとしても、必ず大きな実を結ぶに至るということです。ここで大切なことは、神の力が私たちの救いを実現してくださるとの約束です。
また、このたとえで、貴重な種が道ばたや石地や茨の中にも落ちたとは、何とももったいない。イエスさまが神の御言葉の種を、じつに無造作に蒔いているように見えるのです。「なぜ」、と思います。
しかし、そのおかしな点に神さまの恵みが表されています。その無造作な、ムダとも思える種の蒔き方に、神の恵みが隠されているのです。私たちは、「たまたま」道ばたや石地や茨の間に種が落ちたように思い込んでしまいますが、本当は「わざと」それらの土地に蒔いたのかも知れません。
私自身を振り返ってみました。大学生のとき、日曜日の朝、家でダラダラしていたら、「たまたま」ルーテルアワーのラジオ放送が聞こえてきたのです。それで興味をもって聞くようになり、聖書通信講座にも申し込んだのです。幼児期から高校生のときまで、まったく信仰に関心なく過ごして来た私が、誰が聞くとも分からない、ムダを承知で種をバラまくラジオ伝道によって教会に連なる者となりました。神が、ムダだと分かっているような土地にも種を蒔き続けてくださったからです。神が、無造作に、この不毛な私という土地にも種を蒔いてくださった。そこに神の愛が表れています。
でも、元々「良い土地」の人などいるのでしょうか。道端でも、石地でも、茨の地でも、深く掘り起こして耕されれば良い土地になります。この硬い土、石、茨とは、神の言葉を受け入れない、これに従おうとしない、私たちの中にある頑なさのことです。自分の考え方、生き方、経験、楽しみ、誇り、そういったものが神の言葉を受け入れないのです。神は私たちの心に種を蒔き、そこを耕し、石を取り除き、雑草を抜いてくださったのです。御国の言葉とは、私たちの頑なな心を砕く言葉です。この砕かれ、変えられていくことが、「悔い改め」であり、その実りとは、神の国の祝福にあずかることです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがあなたの愛の御心を現して、御心が必ず成ること約束してくださったことを感謝いたします。御言葉が私たちの心に深く根づき、良き実を豊かに結ぶことができますよう助けてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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