Sola Gratia

広場の子供たちのたとえ

16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。17『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

《今の時代を何にたとえたらよいか》(16a)、こうイエスさまが話し始めます。イエスさまは「今の時代」をどう思っているのか、この章の初めに戻って、考えてみたいと思います。

洗礼者ヨハネは、イエスさまが伝道を始める前に、ユダヤの荒れ野に現れ、人々に悔い改めの印としての洗礼を授けていました。そして彼はイエスさまについて、「自分の後に、自分よりも優れた方が来られる。その方こそ、本当の洗礼を授ける方だ」(3章11参照)と語っていたのです。そのヨハネはガリラヤの領主ヘロデの怒りを買って捕らえられます。すると、イエスさまが活動を開始しました。イエスさまの活動は、洗礼を授けることではなくて、人々に神の恵みを宣べ伝え、病気や悪霊につかれて苦しんでいる人を癒すことでした。そのイエスさまのみ業を伝え聞いたヨハネは、獄中から弟子を遣わして《来るべき方はあなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか》(3)と問わせました。それに答えて、イエスさまは、《目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている》(5)、とご自分のみ業を語り、そして《わたしにつまずかない人は幸いである》(6)、と弟子たちにヨハネへの伝言を託しました。ヨハネに、イエスさまを来るべき救い主と信じる信仰の決断を求めたのです。

そしてそのあと、イエスさまは、今度は人々に、ヨハネのことを語り始めました。ヨハネは、偉大な預言者であって、預言者と律法の時代の終りに立っている者だ。来るべき救い主の先駆けとして道を備えるために遣わされたエリヤだと語ります。そして《聞く耳のある者は聞きなさい》(15)と言って、今度は人々に、ヨハネのことを来るべきエリヤとして認め、受け入れる信仰の決断を求めたのです。

このようにイエスさまはここで、ヨハネ自身にも、また人々にも、信仰の決断を求めています。ヨハネには、イエスさまを来るべき救い主と信じ、自分をその先駆けとして位置づけるという信仰の決断を求め、人々には、ヨハネを救い主の道備えをするエリヤとして受け入れ、そのヨハネが指し示したイエスさまを信じるという信仰の決断を求めたのです。つまり、救い主の先駆けであるヨハネが遣わされ、そして神の独り子であるイエスさまが人々を救うために今や人となって来られ、み言葉を宣べ伝え、癒しのみ業を行っている、そのようにして神が人々に救いの手を差し伸べ、語りかけ、信仰の決断を求めておられる。それが、イエスさまの見ている「今の時代」なのです。

イエスさまは、今の時代は、広場の子供たちが、《笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった》(17)、と互いに文句を言い合っているのに似ていると言います。「笛を吹く」というのは、婚礼のお祝いごっこにおいて笛を吹くことであり、「葬式の歌をうたう」とは、葬式ごっこで葬送の歌を歌うことです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」、それは、婚礼ごっこをしてみんなで歌ったり踊ったりしようとしたのに、相手がそれに乗ってくれないということです。「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」、それは、葬式ごっこをして嘆きの歌を歌っているのに、それに合わせて嘆き悲しむまねをしてくれないということです。つまり、今の時代は、このように相手が自分の思いを受け入れてくれないと文句を言い合っている子供たちの姿に似ているとイエスさまは言っているのです。

この婚礼ごっこと葬式ごっこという対照的な遊びの組み合わせは、次の言葉につながります。《ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う》(18-19a)とあります。ヨハネは「食べも飲みもしない」。つまり、荒れ野に住んで、いなごと野蜜を食べ、非常に禁欲的な生活をしていました。それに対してイエスさまは、「飲み食い」している。イエスさまはカファルナウムの町の、ペトロの家を根拠地としており、弟子となった徴税人マタイの家で、大勢の徴税人や罪人たちと一緒に宴会の席に着いたのです(9章10参照)。そしてここに語られているのは、このように対照的な生活をしているヨハネとイエスさま、そのいずれに対しても、人々は違った批判をして、そのいずれの教えをも受け止めようとしないということです。ヨハネが禁欲的な厳格な生活をしていると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、イエスさまが飲み食いしていると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と言う。そのように、あちらに対してはああ言い、こちらに対してはこう言うという仕方で、結局ヨハネの語りかけもイエスさまの語りかけも受け入れようとしない。つまり、自分のしたい遊びを相手がしてくれないと文句を言い合っている子供のように、お互いに思いがすれ違い、一致できない人間たちが、そのすれ違い対立する思いの中で、しかし一致している。それは、神からの救いのみ手を拒み、救い主イエスさまを受け入れないということなのです。

洗礼者ヨハネの教えは、葬式の歌になぞらえられています。ヨハネは人々に厳しく悔い改めを求めました。自分たちの先祖はアブラハムだ、我々は神に選ばれた民なのだ、などということは何の役にも立たない、悔い改めに相応しい実を結ぶことがなければ、その木は容赦なく切り倒され、火で焼き滅ぼされるのだ、と語ったのです。その教えは人々に、葬式の歌に合わせて悲しみ嘆くように、自分の罪を嘆き悲しみ、悔いることを求めているのです。

それに対してイエスさまの教え、み業は、婚礼の祝いになぞらえられています。そこに流れる基本的な調べは喜びです。ヨハネと同様にイエスさまも《悔い改めよ、天の国は近づいた》(3章2と4章17)と言って伝道を始められましたが、ヨハネが「悔い改めよ」ということに集中していったのに対して、イエスさまは「天の国は近づいた」ということを、み言葉とみ業によって示していかれたのです。イエスさまが示された「天の国」は、神の深い恵みと憐れみの支配です。人々の苦しみに同情し、それを取り去り、癒してくださる神の恵みがイエスさまのみ業によって示され、罪を犯して神から遠く離れてしまっている者をも赦し、ご自分のもとに招いて、共に歩んでくださる恵みが、徴税人や罪人たちを招いて食事の席に着かれる姿に示されているのです。イエスさまを救い主として信じ受け入れるときに、私たちは何よりもまずこの喜びと祝いに生きる者とされるのです。

洗礼者ヨハネの教えとイエスさまの教えとは、このように違いますが、ヨハネが間違っていて、イエスさまが正しいということではありません。ヨハネはイエスさまの道備えをしたのです。つまりイエスさまの喜びの教えの前提には、ヨハネの説いた悔い改めがあるのです。自らの罪を悔いる、そのことが、イエスさまによる罪の赦しの恵みへの道備えとなっているのです。自分の罪を認め、悔い改めることなしには、赦しの恵みにあずかることはできません。また逆に、イエスさまによる罪の赦しの恵み、神の憐れみの支配(神の国)を知ることなしに、本当に自らの罪を見つめ、それを悔い改めることもできません。ヨハネの教えとイエスさまのみ業はそのように密接に結び合っています。そして、「今の時代」の人々は、そのいずれに対しても、何だかんだと理屈をつけて拒絶し、受け入れようとしません。イエスさまが「今の時代」について言われたことは、そのまま私たちにも当てはまるのではないでしょうか。

イエスさまは最後に、《しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される》(19b)と言われました。イエスさまこそまことの知恵であり、その正しさは、その働き、つまりイエスさまのみ業やみ言葉によって証明されるのです。イエスさまは、洗礼者ヨハネに、先に触れた5節でご自分のこのみ業を示した上で、「わたしにつまずなかい人は幸いである」と言われました。これらのみ業から、イエスさまこそ来るべき救い主であることを信じる、信仰の決断を求めたのです。

私たちはさらに、イエスさまが私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んでくださったこと、その死に勝利して復活してくださったことを知らされています。そこには、私たちに悔い改めを与え、罪の赦しの恵みの中で喜びをもって生きる新しい命を与える神の知恵があるのです。私たちは毎週、礼拝においてイエスさまの喜びの笛の調べを聴いています。信仰の決断をもって、この喜びと祝いの列に加わることができますように。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたがイエスさまの恵みのみ業を通して、私たちを救いの祝宴に招いてくださっていることに感謝いたします。どうか、私たちが信仰の決断をもって、イエスさまと共に生きていくことができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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