40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
イエスさまは弟子たちを福音宣教に遣わすにあたって、弟子たちの使者(使徒)としての資格をこう確認します。《あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》
(40)。すなわち、弟子たちはイエスさまの名代として、イエスさまを代理している。それで、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる」ことになります。そして、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と続きます。これは大切な宣言です。イエスさまこそ神から遣わされたお方ですから、イエスさまを受け入れることは神を受け入れること、イエスさまを拒むことは神を拒むことであると宣言しているのです。
この「受け入れ」の道筋は、神が私たち人間のもとにやってくる順序であり、私たち人間が神との出会いに至る順序でもあります。神は御自分をイエスさまに委ね、イエスさまは御自分を弟子たちに委ねました。こうして弟子たちの証しによって、私たちが神との出会いに導かれるようにしてくださったのです。
弟子たち、つまり私たちが伝えることは、父なる神から遣わされたお方、イエスさまの出来事であり、神から与えられた恵みの出来事です。私たちは与えられた恵みを人々と共に受けようとして、自ら福音の証しに出て行くとのです。父なる神がその愛する御子をこの世に、私たちのところに遣わされたというこの事実を伝えるために遣わされていくのです。《父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす》
(ヨハネ20章21)とイエスさまは言われます。その弟子たちは現在、この地上にいませんけれど、私たちには弟子たちのキリスト証言の言葉が残されています。それが新約聖書です。私たちは、弟子たちの証しを受け入れることをとおして、イエスさまに出会い、父なる神を受け入れることになるのです。
そして、イエスさまは続けます。《預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける》
(41)。ここでの預言者とか正しい者(義人)とは、イエスさまが遣わした弟子たちを指しています。地上でイエスさまと共にいた弟子たちのことだけではなく、イエス・キリスト復活後に諸集会を巡り歩いていた巡回伝道者たちも預言活動や癒しを行いましたから、彼らも預言者または義人と見なされたのです。
預言者と同じ働きをしなくても、預言者を預言者として受け入れる人は、預言者が受けるのと同じ報いを受けることができる、また正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける、というのです。同じ報い、神の祝福、恵みを与えられる、共有するということです。
ここに、「報いを受ける」という言葉が出てきます。イエスさまはこの言葉を強調して三回も用いています。私たちは、救いとは「報い」ではなく「恵み」だと繰り返し学んできました。しかし、この報いは、ただ彼らを「受け入れる」だけで「預言者と同じ報い」、「正しい者と同じ報い」を受けるわけで、結局は、ただ恵みによって彼らと同じ祝福を受け継ぐということになります。
また、「受け入れる」という言葉も何度も出てきました。この「受け入れる」とは具体的には、その伝道者を喜んで家に迎え入れる、わが家に迎え入れる、そのような意味があります。そして、それは神を迎え入れることでもありました。イエスさまを遣わされた神を迎え入れる。自分の家に迎え入れることになるのです。私たち一人ひとりが、どのように扱い、扱われるかということが、その人の救いを定めるほどの大事であるのです。
しかしまた、人をどんなに歓迎しても接待しても、その人の言うことに耳を傾けなければ、礼を失します。弟子たちが語るのを聞くとは、彼らのキリスト証言を聞くことによって神と対話を交わす間柄になるということです。私たちが聖書を読むのは、弟子たちの証しをとおして神の御声を聞くためなのです。
弟子たちを派遣する際のイエさまの言葉に、《帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない》
(9-10)とありましたように、弟子たちは、当時としては考えられないような無防備で無一物な状態で出て行きました。それだけにいっそう人々が彼らを「受け入れる」かどうかは切実な問題だったのです。
さらに、《わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》
(42)とあります。弟子の中の小さな者の一人に、つまり私たち信仰者の中の小さな一人に、冷たい水一杯を飲ませてくれる、そういう小さな好意を示してくれるだけで、神はその人を、信仰者と同じように報いてくださる、つまりイエス・キリストによるまことの命にあずからせてくださるというのです。
「小さな者」とは、ユダヤ教ではもともと、子供たちだけでなく、社会的に弱い者たちや未熟な者たち、さらには貧しくても敬虔な人たちのことを「小さな者」と呼んでいました。イエスさまも神の国の民を「小さな者たち」と呼んだのでしょう。しかし、ここでは、「小さな者」はとくに「イエスさまの弟子」を指しています。また、イエスさまに倣(なら)う以後の教会に仕える伝道者たちも「小さな者」なのです。
とにかく、この小さな者に優しい心で接し、手を差し伸べる人を、神は決して忘れません。このことは、世の終りの裁きについての説教でも言われています。イエスさまはご自分を王にたとえて、《主よ、いつわたしたちは・・・のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか》
と言う人々に、こう答えています。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》
(マタイ25章31~40)。
旅の者に水を与えることは、パレスチナでは当然のこととされていましたから、その行為が「報われる」とは、考えられなかったでしょう。ここで言われているのは、報いに値しないほどのわずかな援助でも、驚くほど大きな報いへとつながるということです。
最も小さい者にした小さな行為の一つ、小さくてあまりにも値打ちもない行為でも、どんなに小さなことでも「わたしにしてくれたことなのである」とイエスさまは言われます。ここでは、世の終り、救いの完成の時を待ち望む中で語られているのですが、終りの裁きのときにも、イエスさまはそのように言ってくださるのです。この「小さい者のひとり」とは信仰者です。私たち一人ひとりのことだと言われます。その私たちに、誰かが水一杯でも飲ませてくれたら、永遠の命を得ると言われたのです。イエスさまの弟子として私たちがこの世に存在することは、それほどに貴重な存在だということなのです。神の祝福が人々の間に広がるために、神は私たちを、職場、学校、地域社会、家庭に置かれ、私たちを祝福の基として用いようとしておられるのです。
きょうの箇所には、ご自分の豊かな恵みを人々に与えたくて仕方がない、そういう神のみ心が描き出されています。イエス・キリストによるまことの命の恵みも、そういうみ心によって与えられているのです。私たちはそれをいただくのに、何の値も払う必要はない、何の条件を満たす必要もありません。そのように私たちにまことの命の恵みをただで与えるために、神の独り子イエスさまご自身が、十字架を担ってくださり、苦しみを受け、死んでくださったのです。私たちがまことの命を得るための値は、イエスさまがもう支払ってくださったのです。神はその恵みを、できるだけ多くの人に受け取ってもらいたいと願っておられます。
私たちはそのような神によってこの世に遣わされているのですから、世間の人々が、まだ信仰を持っていない人々が、ほんの少しでも好意を示してくれ、助けてくれ、あるいは私たちが信仰者として生きることを妨げずにいてくれるなら、そのことを大いに喜んでよいのです。そこに神の恵みの徴を見てよいのです。人々の無理解を嘆くよりも、小さな好意を喜びつつ生きる、それが信仰者のあり方です。そしてそれでもなお、信仰のゆえの苦しみを味わわなければならない時もあります。その時には、私たちのために十字架を担って苦しみの道を歩んでくださった、そのイエスさまに、自分の十字架を担って従っていくのです。まことの命にふさわしい者となるためではなくて、まことの命を得る者としてくださった恵みへの感謝として、です。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたからいただいた私たちの尊い役割と光栄を改めて覚え、感謝いたします。欠けの多い小さな器でしかない私たちを御言葉と御霊によって清め、あなたのご栄光と人々の救いのためにお用いください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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