24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
きょうの御言葉は、「毒麦のたとえ」と、36節以下のその説明です。
初めに、《天の国は次のようにたとえられる》
(24a)とあって、このたとえは「天の国」についての話だと説明されています。「天の国」というのは、死んでから行く「あの世」のことではありません。「天の国」の「天」というのは、「神」のことを言い換えている言葉です。また、「天の国」の「国」は、地上の国家と同じ国を指すのではありません。神が王として支配すること、また神の王としての支配そのものをいいます。そして神の王としての支配を具体的に表しているのがイエスさまです。イエスさまの救いの働きが、神の王としての支配であり、「天の国」なのです。イエスさまを通して「この世」の只中に力強く働いている神の恵みの支配のことです。 このたとえでは、種が蒔かれ、麦に成長して実を結び、やがて刈り入れ、倉に納められるという一連の力強い働きが、イエスさまの支配を表しています。すなわち、御言葉が信仰という実を結び、それが成長し、神によって受け入れられるということです。
このたとえは、《ある人が良い種を畑に蒔いた》
(24b)と始まります。この種まきは、畝に一粒一粒種を蒔くのとは違って、ミレーの「種まく人」の絵のように、種の入った籠を脇に抱えて、種を一握りつかんで、それを蒔き散らすのです。イエスさまを通しての神の恵みの働きを告げる言葉も、そのように豊かに蒔かれます。事実、イエスさまは、当時、罪人と呼ばれ、見向きもされなかった人々にも天の国(神の国)を語ったのです。イエスさまは実に豊かに福音を宣べ伝えました。
次に、《人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った》
(25)とあります。ここには、「敵」が、なぜそんなことをするのか理由は語られていません。ただ畑の主人に敵対する者が現にいること、それが麦の成長を妨害すること、そういう事実だけが語られています。ここでは、「毒麦」が生じる原因、すなわち人間の不信仰の原因には触れていません。
「毒麦」とは、細麦(ホソムギ)という雑草ですが、その実を食べると、下痢や吐き気、しびれを起すので「毒麦」と呼ばれます。農夫にとって大変厄介なものです。育ち初めのまだ苗が若い間は、麦とよく似ていて、殆ど見分けがつきません。大きく育って穂が出てくると、違いはハッキリしますが、その頃には麦と毒麦の根が絡まり合い、毒麦を抜こうとすると、良い麦まで抜いてしまうのです。
そして次の26節では、場面は実りの時に移ります。畑には、麦と毒麦の両方が実っています。これは、人間には、神によって蒔かれた良い麦の人と、敵、悪魔によって蒔かれた毒麦の人との二種類がいるということではありません。信仰のこととして考えると、私たちの心には麦と毒麦の両方が育っているということです。信仰と不信仰の両方が一人の人間の中にあるのです。現実の麦と毒麦は育つ途中で変わることはありませんけれど、ここで言われている、神に敵対していた毒麦が神の御心に従う良い麦に変わるということは起きるし、イエスさまはそれを願っているのです。私たちは生まれながらの毒麦です。神は、その毒麦である私たちを、御自分のところに招き、大いなる忍耐と慈しみをもって、私たちを良い麦へと変えようとしていてくださるのです。私たちはまだかなり毒麦のままですが、変えられ続けています。
また、これを教会のこととして考えると、イエスさまの弟子集団の中には麦も毒麦もいたということになります。イエスさまはこの世界の中で御国の子らを呼び集められました。しかし、その御許に集まって来た者たちの中には、気がついてみると、悪い者が混ざっているということです。このように、天の国、すなわちイエスさまを通しての神の支配は、この地上ではまだ完璧な姿ではなく、欠けのある姿で現れているのです。
このような状況を見て、《僕たちは》
(27)驚き、戸惑います。ここに「僕たち」が登場しますが、僕たちとは、この畑の持ち主であり、良い種をまいた人である主人に仕える人たちです。彼らは、主人が畑に良い種を蒔いたのだから、良い実を結ぶ麦だけが育つはずであって、毒麦はあってはならないと考えます。僕たちは、どうしてこのようなことが起こったのか、その理由を主人に尋ねます。《どこから毒麦が入ったのでしょう》
(27b)。それに対して主人はきっぱりと《敵の仕業だ》
(28a)と言います。それならば、毒麦を抜き集めればよい、僕たちはそう考えて、《では、行って抜き集めておきましょうか》
(28b)、と主人に進言します。敵の蒔いた毒麦を、今のうちに抜き集め、畑を本来の良い麦だけの畑にしよう、ということです。この僕たちは、教会の指導者たちとは限りません。この僕たちというのは、良い麦と毒麦が混在しているようなことはいけないと思っている人たちです。自分こそが何とかしなければならないと思う人々です。毒麦は早めに抜き取って、良い麦だけの、本当に神が種を蒔いた、つまり神が選び、招いて信仰を与えた、その人々だけの純粋な群れにしなければならないと思った人々です。
ところが主人の判断はまったく違います。《いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》
(29)と言います。この主人の言葉が、このたとえ話の中心です。それは、毒麦と麦は地中の根が絡み合っていますから、毒麦を引き抜くと、麦も抜いてしまうからです。そこで主人は、当面、両方とも育つままにしておけと言うのです。実際、私たちの心には麦と毒麦が混在し、信仰と不信仰が混在しています。またイエスさまの弟子の集団(教会)にも麦と毒麦が混在しています。そのため無理に毒麦を引き抜けば、麦を駄目にしてしまうのです。
良い麦と毒麦の区別は難しく、これは毒麦だと思って抜いたものが、実は良い麦だったりすることがあるのです。それで、主人の判断は、麦の一本一本を、つまり私たち一人一人を徹底的に大切にするために、毒麦が生えているのを容認しているのです。「刈り入れまでそのままに」ということの意味は、毒麦の処理は、神の裁きに委ねるということです。
私たちはしばしば、この世界にイエスさまが来て神の支配を造り出しているのに、なぜ悪しきことが未だに力を奮うのかと悩みます。しかし、それは他でもない、私たちに対する神の配慮だったのです。毒麦が生えるままにしてあるのは、麦に対する主人の愛ゆえの忍耐だということです。そして神は良い麦たちにも忍耐を求めているのです。隣に毒麦が生えていて、それによって被る迷惑を、忍耐するようにということです。
良い種と毒麦の混在と対立は、キリスト信者と非キリスト信者との間とか、教会内での真の信者と偽の信者との間のことである前に、じつは信者自身が抱えている根本的な矛盾なのです。この点をヤコブの手紙はこう指摘しています。《わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです》
(3章9~10。
しかし、《刈り入れの時》
(30b)があります。これは、神の裁きの時のことでしょう。その時には、《毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れ》
(30b)るということが起こります。
しかし、神に裁かれて滅びることないように、イエスさまは十字架における贖罪をなされたのです。すなわち、裁かれ滅ぼされる人間に代わって自らが裁かれ滅ぼされ、復活して神との正しい交わりに生きる命をくださるのです。神の救いの御心について、イエスさまはこう語っています。《わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである》
(ヨハネ6章39)。《正しい人々》
(43)、つまりイエスさまの恵みを信じて生きた者たちは、救いの完成の時には、《義の太陽》
(マラキ3章20)であるイエスさまの光を反映して、《その父の国で太陽のように輝》
(43)き、イエスさまと似る者として神の御前に立つのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスの十字架の愛によって、毒麦の私たちを良い麦へと変えてくださったことを感謝します。どうか、御言葉によって私たちを養い、愛と忍耐の御心を証しできる生活へと導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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