16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
きょうの箇所は、こう始まります。《さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った》
(16)。弟子たちはなぜガリラヤに行ったのでしょうか。それは、イエスさまが「行きなさい」と言われたからです。イエスさまが復活されたとき、婦人たちに現れてこう言われたのでした。《恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる》
(10)。
イエスさまはあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。イエスさまが捕らえられたとき、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちを、です。その中には、あからさまに三度も《そんな人は知らない》
(26章72)と言ったペトロもいるのです。さらに、イエスさまが十字架にかけられて死んだ後、自分たちも同じ目に遭わないようにと逃げ隠れしていたあの弟子たちに、イエスさまは婦人たちを遣わして言われたのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。
弟子であることを自らの行動で否定してしまったのですから、もはや「わたしはイエスさまの兄弟だ」などと口が裂けても言えない弟子たちです。イエスさまに会わせる顔もありません。しかし、イエスさまはそんな彼らを弟子として見ていてくださいました。「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、彼らの兄弟としてガリラヤで待っていてくださると言うのです。彼らをみもとに招いていてくださるのです。「そこでわたしに会うことになる」と。
ですから、彼らはガリラヤへ行ったのです。イエスさまが指示しておられた山に登ったのです。ただイエスさまに会いたいからではありません。こんな者をイエスさまが招いていてくださったからです。こんな者でもなおイエスさまが弟子たちとして迎えてくださるからです。イエスさまは計り知れない赦しをもって兄弟として迎えてくださるのです。
イエスさまが指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエスさまがおられて、彼らを待っていてくださいました。《そして、イエスに会い、ひれ伏した》
(17)。彼らはイエスさまにまみえることができただけでなく、そこで彼らは「ひれ伏した」と書かれています。それは「ひざまづいて礼拝した」という言葉です。弟子たちは、復活したイエスさまを神として礼拝を捧げたのです。
しかし、そこにはこう書き添えられています。《しかし、疑う者もいた》
(19b)。この「疑う者もいた」というのは意訳です。原文では「彼らは疑った」と書かれているのです。ですから、何人かが疑ったというよりは、礼拝をしていながら、全員がある程度の不信仰を抱えていたということです。
それが、あの山にいた人たちです。それは、教会のありのままの姿ではないでしょうか。弟子たちと呼ばれるに相応しい人々だったからではない。イエスの兄弟たちと呼ばれるに相応しい人々だったからではない。一点の疑いもない揺るぎない信仰を持っていたからでもない。ただ恵みによってイエス・キリストに招かれたから、そこにいたのです。しかし、そんな彼らにイエスさまは言われました。《あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》
(19-20a)。
これがイエスさまの命じられた言葉の中心です。「すべての民」というこの「民」は複数です。他の箇所ではほとんどの場合、「異邦人」と訳されている言葉です。「すべての民」というのは、「ユダヤ人」という枠を越えた、全世界のあらゆる国々の人々という意味合いです。イエスさまの最初の弟子たちは皆ユダヤ人でしたが、イエスさまは彼らを初めからユダヤ人社会の中に留め置くつもりはありませんでした。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、全世界に向けて送り出したのです。
そのように全世界に向けて送り出されているのが教会です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。代々の教会はこの言葉を文字通りに受けとめてきました。ですから、極東に位置するこの国にまで教会があるのです。だからこそ、ここに私たちがいて、同じ御言葉を聞いているのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。
すべての民をイエスさまの弟子にする、その具体的な手段が二つ書かれています。「洗礼を授けること」と「教えること」です。イエスさまは《彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》
(19b- 20a)と言われます。
異邦人を弟子にせよという説明が、彼らに「割礼を施せ」ではく、「洗礼を授けよ」であることが注目されます。イエスさまを信じる民は、もはやユダヤ教の一部ではなく、はっきりと別のものになるのです。
イエスさまは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われます。教会が洗礼を授けることを、そして、すべての民が洗礼を受けることをイエスさまは望んでいるのです。
この「洗礼」について、パウロが次のように語っています。《それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです》
(ローマ6章3-4)。
「洗礼によってキリストと共に葬られ」とあります。誰によって葬られるのでしょうか。神によってです。神が私たちを葬ってくださる。言い換えれば、神が私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのように、一度葬られるのは何のためでしょうか。「新しい命に生きるため」なのだ、とパウロは言います。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味で、洗礼は古い自分の葬りの式であると同時に、新しい自分の誕生の式でもあるのです。
この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えるでしょう。同じように、霊的に新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方を学んでいかなくてはなりません。イエスさまの弟子として生きる新しい生活の仕方がしっかりと伝えられていかなくてはなりません。イエスさまはそのことを弟子たちに託されたのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。
実際、このマタイ福音書は、そのようにイエスさまが教えられたことを伝えるために書かれたのです。また、使徒たちの手紙において信仰生活に関する具体的な勧めが書かれているのも、そのような理由です。イエスさまが最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。私たちがしっかりと受け取り、それを手渡していくためです。
さて、そのように、イエスさまは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って教会を全世界に送り出されました。「行く」ことも、「洗礼を授ける」ことも「教える」ことも、すべて人間が行うことです。しかし、教会の働きはただ人間の営みによって成り立っているのではありません。主はこれらを命じるに当たって「だから」と言われたのです。つまりイエスさまがこう語られるのには、その根拠があるということです。
その根拠とは何か。こう書かれています。《わたしは天と地の一切の権能を授かっている》
(18)。これが根拠です。そして、最後はこう締めくくられているのです。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》
(20b)。天と地の一切の権能を授かっている御方が、世の終わりまで、いつも共にいてくださる。このことなくしては、この大宣教命令も、恐らく何の意味も持たないのです。
天と地の一切の権能を授かっている御方の称号が「主」です(フィリピ2章5-11参照)。その主が世の終わりまで、いつも共にいてくださる。ただ人間の営みによって教会の働きは成り立っているのではありません。この約束があるからこそ成り立っているのです。だから、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉を受けた彼らは、ただ人間の力や人間の持っているものによってこれを実現しようとはしなかったのです。
「天と地の一切の権能を授かっている」その御方は、天に上げられて、神の右の座に着かれました。その御方が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたように、天に上げられた御方の権能が地上における働きとして現されることを使徒たちは祈り求めたのです。《彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた》
(使徒1章14)。そこに天から聖霊が降ったのでした。教会の宣教の歴史はそのように開始し、今も継続しているのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。復活し天に上げられた御子は、今もなお霊においていつも私たちと共にいてくださいます。私たちが福音宣教の使命を託されている.光栄をつねに覚えて、その使命に励んでいけるよう、力をお与えください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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