37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。
冒頭に、《祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に》
(37)とあります。ユダヤ教では「祭り」といえば仮庵祭を指し、もっとも重んじられた祭りです。秋の収穫の祭りで、9月から10月にかけての頃に一週間行われます。この祭りの間、ユダヤ人たちは仮庵、つまり仮小屋を建ててそこに住んだのです。それは収穫の最盛期に農夫たちが畑に急ごしらえの小屋を建てて寝泊まりするためですが、そこにはもう一つの意味が加えられました。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から主なる神によって解放され、約束の地へと荒れ野を旅していく間、天幕つまりテントに住んで、それを持ち運びつつ旅をしたことを覚えるということです。仮庵祭は収穫の感謝だけでなく、主なる神によるエジプトからの救いの恵みを覚える祭りとして祝われていたのです。
この祭りの最終日には、町の外にあるシロアムの池から汲んで来た水を神殿の祭壇に注ぐという「水汲みの儀式」が行われました。これは元々は、翌年の春の収穫のための秋の雨を願う「雨乞い」の儀式でしたが、これにも新しい意味が加えられました。ゼカリヤ書14章に、こう語られています。《その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となる》
(14章8-9)。主の日、世の終わりの救いの完成の日に、エルサレムで仮庵祭が祝われ、そのエルサレムから夏も冬も尽きることのない「命の水」が湧き出て、世界を潤していく、という預言です。水汲みの儀式において神殿の祭壇に注がれる水は、この「命の水」を表しています。この水は、世の終わりに主の支配が完成するときに世界の人々を潤す「命の水」を待ち望む、という意味を持つようになったのです。
仮庵祭はこのように、収穫感謝祭であると共に、命の水を待ち望む祭りでもありました。その仮庵祭が最も盛大に祝われる最後の日に、イエスさまは神殿の境内で人々に語りかけました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》
(37)、と。仮庵祭には多くのユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。神殿で行われる水汲みの儀式を見るためです。彼らの願いは、世の終わりにエルサレムから命の水が流れ出る、というゼカリヤ書の預言の成就です。その「命の水」を待ち望んでいる人々に向かって、イエスさまは「わたしのもとに来なさい、わたしこそがあなたがたに生きた水を与える」と語ったのです。
イエスさまのこの言葉は、イザヤ書55章に基づいています。《渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ》
(55章1)。主なる神は、渇きを覚えている者をご自分のもとに招いて水を与えようとしている、ということです。「渇き」は水分を求める体の訴え、命の訴えのことですが、ここでは「渇き」は、自分を生かす真実の生命を慕い求める魂のうめき、欲求の象徴として用いられています。
ここで大事なのは、「銀を持たない者も来るがよい」と言われていることです。主なる神は、「銀を払うことなく」「価を払うことなく」、ぶどう酒と乳とを与えてくださるのです。この神のみ心に基づいて、神の独り子であるイエスさまも、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と、祭りに集まった人々に声を大にして告げたのです。
しかし、当時の人々はともかく、私たちはどうしたらイエスさまのところに行くことができるのか。こう教えています。《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》
(38)。ですから、イエスさまのところに来るとは、「わたし(イエスさま)を信じる」ことなのです。イエスさまが生きた水を与えて、渇きを癒してくださることを信じて、イエスさまにその水を求めること、それがイエスさまを信じることであり、それによって私たちはイエスさまのもとに来ることができるのです。
イエスさまが与える水は、私たちの渇きをひととき癒すだけのものではありません。その水を飲んだ者は、自らが水の源となり、周囲を潤していくのです。ゼカリヤ書14章8に語られていたことが、イエスさまの与える生きた水を飲む人に実現するのです。これこそ、仮庵祭にエルサレムに来ていた人々が願い、待ち望んでいたことです。彼らの願いとは、生きた水によって渇きを癒され、また自分が自らその命の水の源となって周囲の人々をも潤していくことができる者となるということです。その願いが、イエスさまのもとに来ることによって実現するのです。
その水は、それを飲む者を、もはや決して渇くことのない者とします。それは、その水がその人の内で尽きることのない泉となるからです。イエスさまの与える水は尽きない泉となるので、それを飲む者は決して渇くことがありません。この「決して渇くことがない」とは、その水が「永遠の命に至る水」であるということを意味します。その永遠の命は、イエスさまの十字架の死と復活によって私たちに与えられています。父なる神が独り子イエスさまをこの世に遣わしてくださったのは、イエスさまの十字架と復活によって私たちをもはや渇くことのない者とするため、つまり永遠の命を与えるためでした。
さて、この招きの言葉に続いて、こう語られています。《イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである》
(39)。37-38節の招きの言葉とこの39節とはどう繋がるのか。
「イエスは、御自分を信じる人が受けようとしている"霊"について言われたのである」(39a)という文章は、38節でイエスさまが語った約束、すなわちわたしが与える水はそれを飲む者の内で泉となり、生きた水が川となって流れ出るということは、イエスさまを信じる人々が受けようとしている聖霊が降ることによって、その聖霊の働きによって実現するのだということを語っています。聖霊を受けることによってこそ、イエスさまからの命の水をいただくことができるのです。私たちにおいても、聖霊を受けることによって、イエスさまが与えてくださる生きた水によって渇きを癒され、周囲の人々をもその水によって潤していくことができるようになるのです。ですから、イエスさまが与えてくださる生きた水とは聖霊のことであると言うこともできるのです。
その聖霊はいつ与えられるのか。《イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである》
(39b)とあります。と言うことは、イエスさまが栄光を受ける時こそ、イエスさまを信じる人々が聖霊を受ける時なのです。その時はいつか。《イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』》
(17章1)。ここで、「時が来ました」というのは、イエスさまが十字架にかけられて死ぬ時がいよいよ来たということです。イエスさまが父なる神から栄光を受けるのはその時です。イエスさまの栄光は、イエスさまが私たち罪人のために十字架にかかって死んでくださったことにこそ、現されているのです。そのイエスさまを、父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者としてくださいました。
十字架と復活によってイエスさまの栄光は示される、その時にこそ聖霊が降るのです。このことが、《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》
(38)というイエスさまのみ言葉と結び合わされています。イエスさまを信じる者に生きた水が与えられ、渇きを癒され、さらにその水がその人の内から川となって流れ出て、周囲の人々をも潤していく、そのことも、十字架の死と復活によってイエスさまの栄光が現され、そしてイエスさまを信じる者たちが聖霊を受けることによってこそ実現するのです。それはつまり教会において、ということです。私たちがこの神の愛を信じているだけでなく、十字架の死と復活によって栄光を受けたイエスさまが、聖霊を私たちに注ぎ、与えてくださっているのです。私たちは聖霊によってイエスさまのもとへと導かれ、信仰を与えられ、教会に連なる者とされています。
そしてそのイエスさまの水、言い替えれば聖霊は、私たちの内で泉となり、尽きることのない命の水の源となり、私たちを生かすだけでなく、私たちの内から川となって流れ出て、この世を、人々を潤し、永遠の命へと至らせていくのです。私たちがイエスさまによる救いを証しし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことによって、そういうことが起るのです。それも私たちの力ではなくて、聖霊のみ業です。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子はあなたの意を請けて、飢え渇く私たちが無償で生ける命の泉である聖霊の注ぎを受けられると招いてくださいます。この福音に私たちの心を開き、新しい命に生まれ変わることができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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