Sola Gratia

徴税人マタイを弟子にする

9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

すでにシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエスさまの弟子とされた経緯が4章に書かれていました。次第に弟子の群れが形成されつつありました。その弟子の群れにマタイが加えられたというのがここに書かれている出来事です。収税所に座っていた「一人の人」を弟子として召された記事はマルコ福音書2章13-17節と同じです。ただし、その人の名がマルコ福音書では「アルファイの子レビ」で、マタイ福音書では「マタイ」と異なっています。しかし、伝統的には、マタイとレビは同一人物を指すと解釈されています。

マタイは十二弟子の一人であって、伝統的にはマタイ福音書はこの人によって書かれたとされます。今日でも福音書と著者を「マタイ」と略称していますが、これはあくまで便宜的な呼称であって、この福音書の著者が使徒マタイでないことは現在広く認められています。

ところで、「弟子」という言葉が繰り返し出てきますが、弟子とは、ふつうは、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ学生を指します。ラビの言葉に耳を傾け、質問をし、聞いたことを復唱し暗記する。また、ラビの生活を倣い、律法に従った生活を学ぶ。それが弟子です。

実際、イエスさまの弟子たちも、そのような一般的な弟子の生活していたのだと思います。イエスさまの言葉に耳を傾け、復唱し暗記する。またイエスさまの生活を良く見て倣う。弟子たちがそのようにしてくれたおかげで、イエスさまの言葉、イエスさまの物語が今日に至るまで残っているのです。

そのように、外から見るならば、明らかにイエスさまは一人のラビであり、福音書においてしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。しかし、その一方で、イエスさまはユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在だったことも事実です。そのために、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。

そもそも、弟子の取り方からして、イエスさまは通常のラビと決定的に違っていました。その違いが今日の聖書箇所に良く表れています。一般的には、弟子になりたい人がラビを選び、弟子入りするのです。そのような世界は、私たちの身近な習い事などにもあるので、容易に理解できるでしょう。そこには当然のことながら、弟子入りする者の求道心が前提とされます。

しかし、イエスさまの場合、そうではありませんでした。他の福音書においてイエスさまはこのように言っています。《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ》(ヨハネ15章16)。普通のラビはそんなことは言いません。しかし、イエスさまの言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエスさまを教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエスさまの方から入り込んできたのです。そして、イエスさまが彼らを招いて弟子としたのでした。

この場面のマタイも同じです。《イエスはそこをたち》(9)と書かれています。つまり、これは前の場面の続きなのです。イエスさまが自分の町、カファルナウムに帰って来ました。そのことが知れると、大勢の群衆がイエスさまの周りに集まってきました。中風の人を床に寝かせたまま連れて来るような人たちもいたのです。しかし、もちろんすべての人がイエスさまのもとに集まったわけではありません。そんなことに関心のない人もいたのです。事実、マタイは行きませんでした。収税所に座って仕事をしていたのです。ナザレのイエスがカファルナウムに帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。

彼は《収税所に座って》(9)いました。彼は徴税人です。きょうの箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられていますが、「罪人」というのは、いわゆる下層民、貧しい人びとで、そのためか、律法について無知であり、生活も律法を軽視した人びとであって、かならずしも前科のある人びとではありません。しかし、徴税の業務には不正が入り込む余地がいくらでもあって、不正な利得が蓄えることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく書かれていますが、その言葉は、このマタイという人がその時まさに罪深い生活の中にどっかと腰をおろしていたことを暗に示しているのです。

しかし、そのようなマタイに、イエスさまの方から目を止められたのでした。そして、彼に《わたしに従いなさい》(9)と言った。そこで、《彼は立ち上がってイエスに従った》(9)のでした。

この「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味でも用いられる言葉です。立ち上がったマタイは、復活したマタイでもあります。罪の生活の中にどっかと腰をおろしていた彼が、神との関わりに新しく生き始めた。それは確かに「復活」と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではない。しかし、ともかく重い腰を上げて立ち上がった。そして、イエスさまと共に新たに歩みはじめたのです。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことです。

そのようにイエスさまがマタイを招かれたこと、そしてマタイが立ち上がったことを念頭に置いて読むと、その後の食事の場面の意味が見えてきます。《イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた》(10)。イエスさまはここで、マタイの仲間と一緒に食事をしているのですが、食事を共にすることは、ご自分がその人たちの仲間であることを示す行動です。

ファリサイ派の人たちは《なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか》(11)と弟子たちに激しく抗議しました。ファリサイ派の人たちは、律法を順守する自分たちは「義人」であるとして、律法を知らないか守らない異邦人やイスラエルの中の「罪人」たちとは決して食卓を共にしませんでした。彼らと交わることは、彼らの汚れを身に受けることになるからです。

そのとき、イエスさまはこう答えられました。《医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》(12-13)。

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエスさまが引用されたこの言葉は、先ほど第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。

当時のユダヤ教の原理は「いけにえの原理」でした。すなわち、神と人との関係は人間が神に捧げるよきものによって成立するという原理です。そして、神から与えられた律法を守る行為こそ神に捧げるよきものであるから、それを積むことによって「義人」として神に受け入れられる、ということになります。それに対して、イエスさまは「あわれみの原理」に立つ世界に生きておられます。イエスさまが体現しておられる「神の支配」は「恩恵の支配」です。人間がどれだけよきものを神に捧げることができるかではなく、何も捧げることができない人間にも神がその憐れみをもって無条件に交わりの手を差し伸べてくださるのです。イスラエルの神は本来、預言者も指摘しているように、「憐れみ、慈しみの神」であった。それが傲慢という人間の本性的な罪のために、人間を主人とする「いけにえの原理」の宗教に転落してしまっていたのです。

この福音書を書いたマタイには、その意味することが良く分かっていたに違いありません。なぜなら、マタイもまたイエスさまに招かれた罪人の一人であったからです。そして、イエスさまによって生き返らせていただいた一人であったからです。

イエスさまが自らを医者にたとえたように、イエスさまが罪人を招くのは罪の病を癒すためです。罪の病とは神との断絶です。永遠の命の源である神から離れてしまっていることです。そのままでは罪によって滅びてしまうから、イエスさまは罪人を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキリストに、このように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる私を憐れんでください。」と。ルカ18章13の徴税人、マルコ10章47の盲人、マタイ15章21のカナンの女の祈りなどを参照。

そして、事実イエスさまはこの地上において、罪人に対する憐れみを目に見える姿で現してくださいました。イエスさまは罪人を招くために来てくださり、その罪をすべて代わりに負って、十字架にかかって死んでくださったのです。そして、三日目に復活された憐れみの主イエスさまが、今も食事の席に私たちを招いてくださっているのです。その意味において、私たちは皆、マタイの家において主イエスさまと共に食事をする徴税人であり罪人です。この礼拝堂はマタイの家です。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は憐れみの愛の主であって、神の国の外にいると思われていた多くの人々を、ご自身の食事の席に招いてくださいました。私たちをも招いてくださったことを憐れみを喜び、心から感謝いたします。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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