Sola Gratia

イエスの姿が変わる

1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

《六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた》(1)と始まりますが、六日前に何があったにか。ペトロがイエスさまに《あなたはメシア、生ける神の子です》(16章16)と信仰を言い表しました。またその日を境に、イエスさまは御自分の受難について語り始めました。《このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた》(同21)。それから六日の後のことです。

イエスさまに連れられて高い山に登ったペトロとヤコブとヨハネは、そこで不思議な光景を目にします。《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった》(2)。彼らは、イエスさまの姿が変化したのを見ます。それだけでなく、そこにモーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合っているのを見ます。《イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた》(ルカ9章31)のです。モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表する人物です。イエスさまと共にモーセとエリヤが立っているということは、やがてイエスさまが受けることになる苦難が、神の計画によることとして旧約聖書にすでに語られていたということです。

神の御心による苦難は、苦難で終ることはありません。人間の罪がキリストを十字架にかけて、それで終わりにはなりません。御心がすべてが成し遂げられたなら、その先があるのです。イエスさまは「三日目に復活することになっている」と弟子たちに語っていました。

あの日、あの山の上でペトロたちが見たイエスさまの「顔は太陽のように輝き、服は光のように白く」なっていました。ペトロたちがあの山の上で見たのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエスさまの生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。

彼らはやがてイエスさまが捕らえられるのを見ることになります。不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを、そして見捨てられた者として死んでいくのを見るでしょう。しかし、神は彼らに前もって、すべては神の計画の中にあることを見せてくださったのです。そして、その御心において十字架の先には復活があることを、ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。

とはいえ、あの山の上にいた時には、その意味は分からなかったに違いありません。イエスさまが実際に十字架にかけられ、そして復活されるまでは、この山の上の出来事の意味も分からないのです。ですから、《一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた》(9)と書かれているのです。

そのように、あの山の上の出来事は一旦封印されたのでした。しかし、その出来事は、今やこうして福音書に記されています。イエスさまが復活し、彼らがその意味を知って語り出したからです。イエスさまの受難の前に、すでに彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出したのです。《わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです》(2ペトロ1章16)。

そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を指し示す出来事でした。しかし、それだけではありません。彼らが目にしたのは、彼ら自身の復活、そしてここにいる私たちの復活をも指し示す出来事だったのです。

きょうの箇所で「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていました。この福音書は、ペトロたちがただ栄光に輝くイエスさまを見ただけではなく、イエスさまの姿がペトロたちの目の前で「変わった」ことを伝えているのです。

実はこの「変わる」という言葉は、例えば芋虫が蝶になるような変化を表す言葉です。しかも、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。イエスさまは神の御子でありながら、神の側にいる者としてではなく、私たちと同じ人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」と書かれているのです。イエスさまは一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。

ペトロは、ただイエスさまの復活を指し示すだけではなく、私たちの復活をも指し示す出来事を見たのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。イエスさまは一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちもまた変えられるのだ、という希望を与えるためです。

ところで、イエスさまの姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエスさまにこう言います。《主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです》(4)。彼は、栄光に輝くイエスさま、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたかったのでしょう。しかし、ペトロたちは山の上に留まるために連れて来られたのではありません。光り輝く雲が現れて彼らを覆います。雲の中から、神自らペトロたちにこう語られました。《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け》(5)。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

父なる神は、確かにイエスさまについて「これはわたしの愛する子」と言われました。その「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではありません。神の愛子は山の下へと向かわれます。そして、弟子たちに《わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》(24)と言われるのです。

そして私たちが山の上ではなく、現実の世界のただ中に身を置いて、そこでイエスさまに従って生きようとするならば、そこで初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてきます。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるかが分かります。わが内にこそ罪の暗闇がある。そのとき、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるのです。

そして、もう一つ。自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになります。自分の醜さを知るゆえに、変えられたいと切に願う。自分が芋虫の姿であると知るゆえに、変えられたいと切に願う。それは自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス・キリストに従おうとする時にこそ、切実な願いとなるのです。

そのとき、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。イエスさまの姿が変えられた。その姿を指し示して、神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままでいない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くイエス・キリストと同じ姿となるのだ、と。

祈りましょう。天の父なる神さま。罪を贖う御子の十字架に躓かないように、御子は弟子たちに変容した姿、モーセとエリヤと語り合う姿を啓示してくださいました。私たちが聖められる希望を持って世を歩めますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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