「33 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
5章21~48節は、イエスさまが、旧約聖書の教え、あるいは口伝えの教えとしてユダヤ人の間に伝えられてきた律法の教えをとりあげて、それに対して、「しかし、わたしは言っておく。・・・」とイエスさまの教えが語られている部分です。ここには律法の教えとは対照的なイエスさまの教えが示されています。「対照的」と言っても、イエスさまは律法の教えを捨てて、新しい教えを語っているのではありません。律法の教えの本来の意味を明らかにしているのです。《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである》
(5章17)とあるとおり、まさにイエスさまの律法を完成する教えが記されているのです。
本日取り上げた33~37節もまさに、イエスさまが律法の教えをより深め、完成させている箇所です。《また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている》
(33)。これが律法の教えです。この律法の教えに対してイエスさまは、《しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない》
(34)と言います。誓ったことをもし守れなかったら大変だから、誓わないでおいた方がよい、ということではありません。イエスさまは、《あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである》
(37)と言います。この教えは、ヤコブの手紙にも繰り返されています。《わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい》
(ヤコブ5章12)。イエスさまはここで、誓わなくても、あなたがたの言葉はつねに真実でなければならないと言っているのです。
「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という掟は、そのままの形で旧約聖書に出ては来ません。これは、口伝えで伝えられた律法です。しかしそのもとになっているのは、十戒の第2の戒め、《あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない》
(出エジプト20章7) です。この、「主の名をみだりに唱える」というのは、一つには、「誓い」において起ります。誓うときに、神のみ名を引合いに出すのです。日本でも、「神仏にかけて」とか「天地神明にかけて」誓うということがあります。つまり誓いというのは、基本的に人間の言葉が信頼できないという現実の中で起るのです。つまり誓いにおいて神が持ち出されるとき、神は私たちの言葉の真実性を保証する証人として用いられるわけです。このように、人間は神を、自分の主張の正しさを裏付けるために利用していくのです。神のみ名をやたらに唱えるなというのは、神を自分のために利用するな、ということです。この十戒の戒めから、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法が生まれました。主のみ名によって誓うことは、つねに本当でなければならない。つまりこの律法は、単に「嘘をついてはならない」とか「約束は必ず守れ」という道徳の教えではなくて、主なる神を敬い、そのみ名を汚すなという信仰の教えなのです。
ところがイエスさまはこの律法に対して、「いっさい誓いを立てるな」と言います。34節の後半から36節にかけて、「天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて」誓うなという教えが繰り返されています。当時のユダヤ人たちはこのような誓い方をしていたのでしょう。つまり、主なる神のみ名にかけて誓う代わりに、天、地、エルサレム、あるいは自分の頭にかけて誓うことが行われていたのです。なぜそんな言い換えをしたのか。神のみ名にかけて誓うことは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒にひっかかる恐れがあるし、もし誓ったことを果たせなかったら主のみ名を汚す大きな罪を犯すことになる、しかし、神のみ名ではなくて、天とか地とかエルサレムとかにかけて誓うならば、十戒を破ることにはならないし、万一果たせなくても神を冒涜することにはならないですむ、というわけです。ここには、人間が神の掟にしろ、人間の法律にしろ、つねに抜け道を考え出すということが典型的に表れています。イエスさまが「一切誓いを立ててはならない」と言ったのは、そのような抜け道を作らせないため、言い訳をさせないためです。イエスさまはここで、私たちが語るすべての言葉が、神のみ前での、責任ある言葉になっていかなければならない、と教えているのです。私たちは、言葉によって犯される罪の大きさを意識しなければなりません。
しかしまさにそこにおいて、神の独り子、イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死ぬことで、罪を赦してくださったことを覚えなければなりません。イエスさまは十字架にかかって、私たちの身代わりとなって苦しみ、死んでくださった。そのようにしてイエスさまが負ってくださった私たちの罪の中には、私たちの無責任な言葉における罪、偽りや、約束を果たさない罪も含まれているのです。それらの罪のすべてをイエスさまは担って、十字架の死によってそれを赦してくださった。私たちの罪の責任をすべてイエスさまが負ってくださったのです。私たちが無責任な、偽りの、人を傷つける言葉を語ってしまう、その罪の責任をイエスさまがすべて引き受けて十字架にかかって死んでくださったのです。父なる神は、このようにして私たちの語る言葉の一言一言に対する責任を引き受けてくださいました。
イエス・キリストは、私たちの罪の責任を引き受ける愛の中で、この「一切誓いを立ててはならない」という教えを語っているのです。それは、私たちから言葉を奪うためではなく、イエスさまの恵みの中で、本当に責任ある言葉を語っていくことへと私たちを招くためでした。私たちは、イエス・キリストが責任を負っていてくださるがゆえに、恐れずに、神の恵みに応える言葉を語っていくのです。教会の営み、信仰の歩みにおいて、私たちは誓いをします。例えば、私たちが洗礼を受けて信仰者、教会の一員となる時に、父、子、聖霊なる神を信じ、教会員としての務めを果たしていくことを誓約します。役員に選ばれて任に就く時にも、誓約が求められます。牧師が就任する時にも誓約があります。そしてまた、教会で行われる結婚式は、その中心に結婚の誓約があります。教会の営み、私たちの信仰の生活の節々に、誓約、誓いがあります。
教会で行われるこれらの誓約は、私たちが神の恵みに応えて、神を信じ、神に従い、神に仕える者として生きていきます、という約束をすることです。イエスさまは、私たちが、神の恵みに応えてそのような約束をすることを喜んでおられます。そして私たちも、イエス・キリストが責任を負ってくださる、という恵みに信頼して、より頼んで、自分の力ではとうてい負い切ることができないこの約束をするのです。私たちと共に歩んでくださり、私たちのために責任を負ってくださるイエス・キリストがおられるから、その恵みの中でこそ、この約束を果たしていくことができるのです。
私たちそれぞれが、もう一度、主の恵みの中でなしたそれぞれの誓約を思い起したいと思います。主は私たちのその誓約が本当に誠実なものとなるために、十字架にかかって死んでくださったのです。「誓ったから」ではなく、この主の恵みのゆえに、約束した言葉に責任をもって歩んでいきたいと思います。主は私たちの言葉が責任あるものとなるように、見守っていてくださるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は私たちが言葉においても生き方においても誠実であるよう教えられました。言葉と行いであなたの偉大な救いの御業を証しできるよう、聖霊と御言葉をとおしてお導きください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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