「13 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
17 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
イエスさまはご自分に従ってきた人々に向かって、「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」と語られました。それは、今この礼拝に集っている私たちに対しても、このみ言葉が語りかけられている、ということです。
「地の塩、世の光」とはどういう意味か。「地」は、天に対する地で、この地上の世界のことを指しています。「世の光」の「世」と同じことです。「塩である」というは、塩の役割をしているという意味でしょう。塩の役割は、食べるものに味を付け、腐敗を防ぎ、さらには毒を抜くこともできるそうです。イエスさまが「あなたがたは地の塩である」と言ったのは、この世の中に味を付け、腐敗を防ぎ、毒を抜くという役割を果たすということになります。
「世の光である」の「光」は、ものを照らすという役割があります。星のような小さな光は、ものを照らす明るさはありませんけれども、星は方角を教え、自分の位置を教えます。さらに、光は私たちの心を和ませ、潤いを与えてくれます。
地の塩、世の光は、この世によい味をつけ、明るく照らすという働きをするのです。それは、《あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》
(16)ということです。イエスさまは、御自分を信じて従う者に、人々の前で「立派な行い」をしていくことを求めているのです。
さて、ユダヤ人たちにとって「立派な行い」と言えば、律法の教えを忠実に守って生きることでした。《律法や預言者》
(17)とは、旧約聖書のことです。この当時、旧約聖書は、その最初の五つの書物が「律法」、そしてイスラエルの歴史や預言者たちの教えを記した部分が「預言者」、それ以外が「諸書」という三つの部分に分けられていました。イエスさまの時代にはまだ「諸書」は正典として認知されてなくて、「律法」と「預言者」までが正式な正典とされていました。ですから、「律法や預言者」に語られていることに従って生きること、とくに律法を守って生きることこそ、神の前に正しい、立派な行いであると誰もが思っていたのです。イエスさまはその人々の思いを察するように、《わたしが来たのは律法や預言者を・・・廃止するためではなく、完成するためである》
(17)と語ったのです。
当時、律法の教えに精通し、それを完璧に守っている、つまり立派な行いに生きている者の代表と思われていたのが、《律法学者やファリサイ派の人々》
(20)でした。彼らは旧約聖書の律法を日夜学び、それをきちんと守り行っていくためにはどのように生活すべきかを研究し、そしてそれを実践すると共に人々に教えていたのです。「立派な行いをしなさい」ということは、あの「律法学者やファリサイ派の人々」のようになりなさいということだろう、と誰もが思ったはずです。ところがイエスさまは、人々がびっくりするようなことを言います。《言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない》
(20)。
聖書の教える救いは、私たちが立派な行いをする正しい人になることによって得られるものではなくて、イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかり、身代わりになって死んでくださったことによって、恵みとして与えられるのです。だから私たちは罪人であるままで、その救いにあずかるのです。それがキリストの福音、喜びの知らせです。とくに使徒パウロは、《律法を実行することによっては、だれ一人神の前に義とされない》
(ローマ3章20)、《ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです》
(同3章24)と語っています。それが私たちの信仰です。しかしそのことを前提としつつ、イエスさまはここで私たちに、信仰者として立派な行いをせよ、と命じているのです。
けれどもイエスさまがここで語っていることは、キリスト者も律法、十戒をしっかり守って歩みなさい、ということではありません。「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」というみ言葉で、イエスさまは律法をただ廃止しないと言ったのではなく、それを完成すると言いました。イエスさまが来たことによってもたらされた律法の完成、その新しさ、変化とはどのようなことでしょうか。
そもそも、律法の目指していたものとは何か。それは、私たち人間が、神の救いにあずかった者として、神の恵みの下で、神の民として生きることです。
イエス・キリストは、その私たちの罪をすべてご自分の身に背負って、ご自身は何の罪もない神の独り子であるのに、十字架の死刑を受けてくださいました。このイエスさまの身代わりの死によって、私たちの罪が赦されたのです。そして父なる神はイエスさまを死者の中から復活させ、新しい命を与えてくださいました。イエスさまによる罪の赦しを与えられた者が、神と共に新しく生かされ、死にも勝利する恵みの内に置かれることがこの復活によって示されたのです。このイエスさまの十字架の死と復活によって、律法の目指すこと、私たち人間が、神の救いにあずかった者として、神の恵みの下で、神の民として生きることが実現したのです。
イエスさまはこのことのためにこの世に来られました。「律法と預言者」が差し示し、実現しようとしてきたことが、神の独り子イエスさまの十字架と復活において成し遂げられたのです。イエスさまによって実現しているこの恵みの下で、神の民として生きることこそが、律法の完成にあずかることです。イエス・キリストを信じる私たちがなすべきよい行い、立派な行いとは、このことに他なりません。
私たちに求められているのは、イエス・キリストの十字架と復活によって実現した神の恵みによって生きることです。「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」というみ言葉が語っているのもそのことです。律法学者やファリサイ派の人々は、自分が律法をどれだけしっかりと、忠実に守っているか、ということを、自分の救いの拠り所としています。しかしイエス・キリストを信じる者を支えている義は、イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えてくださった義です。それは、人間が努力してうち立てるどんな義にもまさる、神の義です。その神の義をいただき、それによって生かされ支えられて歩むことこそ、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる、イエスさまを信じる者の義なる生活なのです。
私たちは、イエスさまから与えられた塩味と光を失うことなく歩んでいきたい。そのために、まことの地の塩、世の光であるイエスさまの御許につねに留まって離れない者でありたいと思います。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子の恵みによって地の塩、世の光として用いられる光栄に感謝します。塩気を失わず、光を隠すことなく歩み続けることができるよう、たえず御言葉と聖霊によって導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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