《1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。/4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。/5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。/6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。/7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。/8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。/9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。/10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」》
今日の聖書の箇所は、聖書の小見出しにあるように、「山上の説教」の最初の部分です。マタイ福音書5章から7章は、イエスさまが山の上で群衆に語ったとされる教えがまとめられています。しかし、実際には5章から7章までの長い話を一度に語ったとは考えられず、折々に人々に語った教えを、マタイが編集して、「イエス説教集」という形でまとめたものとされています。
このマタイの「山上の説教」に収められているイエスさまの言葉は、ルカ福音書にもかなり重複する言葉が収められています。しかし、《イエスは・・・山から下りて、平らな所にお立ちになった》
(ルカ6章17)とあることから、ルカの説教集は、「平地の説教」と呼ばれます。
また、この「山上の説教」が行われた山が一体どこの山なのかは特定できません。しかし、昔のカトリック教会の人たちが、その山はここだと想定して、ガリラヤ湖畔の丘の上に、「山上の垂訓教会」という美しい教会を建てています。今も世界中から巡礼者が訪れています。
この「山上の説教」で、イエスさまは開口一番、《心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである》
(3)と語り出しました。ルカ福音書の、《貧しい人々は幸いである》
(ルカ6章20)という言葉の方がイエスさまの実際の言葉に近い、つまり「心の貧しい」の「心の」は、後からマタイが付け加えたと考え方をする人もいます。
マタイの方に記録されている「心の貧しい人々は、幸いである」というのは、いま貧困に喘いでいる人たちのことだけを念頭に置いていたのではなく、さまざまな社会層やさまざまな経済力の人がいて、より多様な人々が、イエスさまの周囲に集まっていることを配慮したのかもしれません。
この「心の貧しい人々」とは、日本語でよく言われる「心の豊かな人」の反対語としての「心の中身が乏しい人」という意味ではありません。「心において貧しい者であれ」、つまり「豊かな人、金持ちのような心は持つな」ということです。金持ちは、人に苦労をさせて、自分は不労所得を吸い上げている。自分で使いきれないほどの資産をため込んでいるくせに、貧しい者のための寄付は出し渋っている。そのような浅ましい人間性を持ってはいけない、ということです。
そういう生き方ではなく、謙遜な思いで、お互いにいろいろ苦労もあるし、不足するものもあるけれども、助け合いながら、地道に生きていこうではないかということです。
続いて、イエスさまは《悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる》
(4)、《柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ》
(5)言って、私たちの生き方を示しています。「悲しむ人は慰められる」、それがこの世の当たり前のあり方ではないか。「柔和な者が、この世界を未来へと進展させてゆくのだ」、それがこの世の本来のあり方ではないか、とイエスさまは私たちに訴えかけているのです。
きょうの旧約の日課は、正しい人の生き方を、このように要約しています。《人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである》
(ミカ6章8)。
続いて、「義に飢え渇く人々」(つまり、神の前に偽りのない公平で正しい世界や生き方を強く望む人々)、「憐み深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」(すなわち、神の前に真っ当な自分たちであろうとするために、世の中から痛めつけられる人々)は、幸いだと述べています。
イエスさまの言う「幸い」は、ふつうの「幸せ」とは意味が違います。この「幸い」とは、創造主である神が「これが人間にとって幸せなのだ」と言っている「幸い」のことです。そして「幸せ」の方は、人間自身が「これが自分にとって幸せだ」と言っている「幸せ」のことです。神の目から見た「幸い」と人間の目から見た「幸せ」は、重なる部分もありますが、聖書がいう「幸い」の基準は、あくまで神の視点です。
そして最後に、イエスさまは、《わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである》
(11-12)という言葉で、この「幸いである」という一連の教えを締めくくっています。
どのような人間が真に幸福な人間なのかについてのイエスさまの教えは、純粋で真実なものだと私たちは信じることができます。けれども、そういう生き方を通そうとすると、この世では必ず迫害も受ける、ということを、イエスさまは予告しているのです。
富や成功を求めない心を持つとか、悲しむ者こそ慰められるような場所が必要なのだとか、柔和な者こそこの世を受け継いでゆくべきなのだとか、そういった私たちの価値観は、世の中ではあざけられ、軽んじられます。世の中には、「人間は富や成功を求めるものなのだ」とか、「人間社会は弱肉強食だ」という前提が当たり前のようにあって、それに当てはまらない人間は、変人だと思われてしまう。それが現実です。この現実の非情さは、昔の格言が、《持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる》
(マタイ13章12)と言っているとおりです。
私たちは、そういう価値観に妥協したり、真面目に悩んだり、この世の有様と真剣に対立して、体や心の調子を崩してしまったりするかもしれません。しかし、そのように挫折することもイエスさまはお見通しで、こういうことを言っているのでしょう。イエスさまはご自身の生き方を貫いて殺されてしまいました。
私たちには、昔の預言者たちやイエスさまのように真っ当な人としての生き方を徹底することは困難ですけれども、それでも、少しでもそんな人に近づきたい。こんな人間が幸せになるような世の中を作りたい。少しでもそんな人、そんな世の中に近づけることができたらと思うのです。
きょうの「幸せ」の言葉は、心において貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐み深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、そしてイエスさまと共に歩みたいという意志を持っているだけで、ののしられ、悪口を浴びせられ、迫害される人。幸いの言葉は、そういう人たちへの祝福の言葉です。それと共に、神は今も世界を創造し続けておられ、神の国をこの世にもたらす、という約束でもあります。ですから、イエスさまは言い残しているのです。「あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。神は必ず、あなたがたに報いてくださいます。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は人としての正しい生き方を端的な言葉で示してくださいました。私たちが聞くべき耳を持ち、御子の導きに委ねて生きてゆけますように、あなたの聖霊をお遣わしください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
© Sola Gratia.
powered by freo.