Sola Gratia

荒れ野での試み

1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

イエスさまはヨハネから洗礼を受けた後、御霊に促されて荒れ野に入り、そこで四十日間サタンの誘惑を受けました。イエスさまはその三つの誘惑を聖書の言葉を用いて退けていますが、それがみな申命記からの引用です。申命記は、荒れ野の四十年の彷徨を、イスラエルが御言葉に聴き従うかどうかを神が試した期間だとしています。

マタイは、イエスさまがユダヤの荒れ野で断食して祈り、そこで御霊の深い試練を受けたという伝承を、イスラエルが四十年荒れ野を彷徨した物語に重ねることで、自分たちが地上の旅路で直面する誘惑と試練に、神の言葉に聴き従うことによって打ち勝つべきことを、イエスさまをモデルにして物語ります。

イエスさま自身、その地上の生涯においてこのような誘惑にさらされ、父への従順によって打ち勝ったのでした。イエスさまは弟子たちにこう言っています。《あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒にいてくれた者たちである》(ルカ22章28)。この三つの誘惑ないし試練の物語は、イエスさまがその生涯において体験し、一緒にいた弟子たちが見た誘惑・試練の要約でもあります。

イエスさまは《四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた》。四十日間の断食は、飢餓状態になり回復不能な衰弱に陥ります。まさにその時に《誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ》。神の子ならば、石をパンに変えて、自分の命を救ったらどうかという誘いです。神の力を自分のために用いるように誘っているのです。この誘惑は最後の死の場面まで続いています。自分を逮捕しにきた軍勢を、イエスさまは父に願って十二軍団の天使で撃退することもできたのですが、神の計画を成就するために、この誘いを退けます(マタイ26章53~54)。十字架の上で苦しむイエスさまに向かって、「神の子なら」今十字架から降りて自分を救ってみよ、と不信のユダヤ人たちは挑発しますが、イエスさまは黙して十字架の死を父の御旨と受けとめます(マタイ27章39~44)。

この誘惑に対して、イエスさまは申命記を用いて答えます。この言葉に従うことによって、誘惑を退けるのです。《主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった》(申命記8章3)。

イエスさまは自分の命を救うことよりも、神の言葉に従うことを優先させます。マタイは、このようなイエスさまを語ることによって、荒野に旅する主の民に同じ生き方と覚悟を促しているのです。

申命記はマナの奇跡はこのことを教えるためであったとしています。ところが、ユダヤ人たちはイエスさまに、モーセが荒野でイスラエルにマナを与えたと同様の奇跡をしてみせるように要求しました。イエスさまが神の子、メシアであるならば、モーセに勝る業をして見せよと言います。メシアの時代はモーセの時代を再現するはずだからです。もしイエスさまが石をパンに変えて限りなく民衆にパンを与えるならば、イエスさまは直ちにメシアであると歓呼されて、イスラエルの解放というメシアの偉大な業を成し遂げることができるではないかと誘惑します。イエスさまはこのような人間の欲求を満たすメシアの道を退け、神の御旨に従い受難の僕の道を歩みます。

《次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、神の子なら、飛び降りたらどうだ》と言います。現実にはイエスさまは荒野にいますが、イエスさまの内面に起こった誘惑と戦いを、マタイは実際の光景のように描きます。もし自分が神の子、メシアであると言うのなら、神殿の屋根から飛び降りて無事であることを見せれば、民衆は信じるだろうと言うのです。当時のメシア待望は、神殿がメシアの栄光が現される場所としていました。悪魔は聖書の言葉(詩編91編12)を引用して誘惑します。ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、しばしばイエスさまにメシアのしるしを要求しています。

イエスさまは再び申命記の言葉を用いて、この誘惑を退けます。《あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない》(申命記6章16)。イスラエルは荒れ野を旅していたとき、水がないのでモーセと争い、モーセが本当に神から遣わされた者であるのかを問題視しました。モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言いますが、結局民の要求に応えて、ナイルを打った杖で岩を打ち、岩から出た水を与えます。それで、その地はマサ(試し)とメリバ(争い)と呼ばれるようになったのです(出エジプト記17章1~7)。

ここでは、主を試みるように誘惑する者も聖書の言葉を用いています。しかし、主を試みる行為は人間の側の欲求を神が満たすかどうかを試す行動であり、信仰は自己が無となって神の信実だけを根拠として行動することであって、まったく別物です。「主を試してはならない」という申命記の戒めは、《心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章5)という根本的な戒めのすぐ後に置かれていて、この戒めの裏側をなしています。

《更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った》。これもイエスさまが内面において、生涯を通して戦ったことを物語にしたものです。地上のすべての民と富を思うままに支配する権力を与えようと言います。その権力を獲得するためには、他者を支配する力を最高の原理として拝まなければなりません。それは神に敵対する力、サタンを神として拝むことです。

長年、異教の諸帝国の強大な力の支配に虐げられてきたイスラエルは、それに打ち勝つ力をメシアに期待するようになりました。メシアは世のすべての国を支配し、イスラエルをその支配にあずからせる者でなければならない。そのようなユダヤ教のメシア期待に、イエスさまはサタンの誘惑を直感し、厳しく退けます。

イエスさまは三度申命記の言葉を用いてこの誘惑を撃退します。《退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある》(申命記6章13)。この「サタンよ、退け」という激しい言葉は、受難の秘義を語り始めたイエスさまを諫めたペトロに向かって発せられています(マタイ16章23)。「主の僕」として受難の道を歩むイエスさまは、ペトロのメシア期待の中にサタンの誘惑を見て、激しく退けたのです。

こうしてみると、三つの誘惑はみな、《あなたには、わたしの他に神があってはならない》という第一戒をめぐる戦いであることが分かります。イエスさまは、父から受けた啓示と召命とは別のメシアの道へと誘う誘惑を、第一戒の精神に固執することで克服するのです。

私たちも地上の歩みの中でたえず誘惑にさらされています。自己の欲望の充足とか、自分の栄光とか、他者を支配する力とかを神とする誘惑がつきまといます。この誘惑に対して、私たちはイエスさまに現された神だけを神とし、この神に自己を委ねきることで勝利するのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは苦難の僕として様々な試練を乗り越え、人の罪を贖い、救いの道を切り開いてくださいました。私たちが誘惑に陥ることなく救いの道を歩み通せるよう守り導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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