Sola Gratia

キリスト来臨のしるし

25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。 30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。 31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。 32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。 33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。 35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。 36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

きょう読まれたのは「世の終わり」に関するイエスさまの言葉です。「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」や「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。「世の終わり」と聞いて、人がイメージするのは、どちらかと言えば、「破局」としての「終わり」ではないでしょうか。

この聖書箇所の直前には、一つの「破局」としての「終わり」が語られています。《エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい》(20)というイエスさまの言葉です。「エルサレムの滅亡」は、この約40年後に予告どおり実現することとなりました。

イエスさまは、「エルサレムの滅亡」の描写に続いて、ユダヤ人だけでなく、他の諸国民にとっても破局としか思えないような「世の終わり」について語り始めました。《それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである》(25-26)。

古代の人々にとって天体は不変の法則と秩序を代表する、もっとも確かなものでした。しかし、その「天体さえも揺り動かされる」とイエスさまは言います。つまり世の信頼できる秩序はもはや何も残らないということです。それで、人々は「なすすべを知らず、不安に陥る」のです。イエスさまは、すべてが崩壊し、すべての希望が失われる「破局としての終わり」について語っているように見えます。

ところが、イエスさまはこう続けます。《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ》(27-28)。

崩壊と絶望に向かっているとしか見えなかった「世の終わり」の描写が、実はそうではなかったことが明らかになるのです。イエスさまは、「あなたがたの解放の時が近い」と言います。なぜなら、「人の子が…雲に乗って来るのを、人々は見る」からです。人の望みが断たれたところに、神の救いが向こうからやってくるのです。強盗に襲われた人にサマリヤ人が近寄ったように、私たちのところに神の救いである方が近寄ってきてくださるのです。

ここに書かれている「人の子」とは、この場合、世の終わりに再び来られるキリストです。解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。この表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7章13)。「雲に乗って来る」ということは、ふつう人間が想像するような仕方では来ないということです。予期しない時に、予期しない所から、予期しない仕方で救いは来るのです。だから、私たちは不安と恐れに支配されてはなりません。「その時こそ、あなたがたは身を起こして、頭を上げなさい」、「あなたがたの解放の時が近いからだ」とイエスさまは言うのです。

そしてイエスさまは、このことについて、さらにたとえを用いて教えます。《いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい》(29-31)。

葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。「それと同じように」と言うならば、「これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」と続くのが自然でしょう。しかし、イエスさまはそう言わず、「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言うのです。「神の国が近づいている」ということは、言い換えるならば「神の救いが近づいている」ということです。

イエスさまを信じるのであれば、新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から「神の国」の到来の確かさ、すなわち救いの実現を思うべきなのです。「イエスさまを信じるのであれば」、そこで求められているのは、イエスさまとその御言葉への信頼です。ですから、イエスさまはさらにこう宣言します。《はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》(32-33)。

天地が滅びても、イエスさまの言葉は最終的に残るのです。イエスさまが言うとおり、「破局」の中になお救いがあるのです。救いは向こうから、予期しない時に、予期しない所から、予期しない仕方で来るのです。

さて、イエスさまが語っているのは「世の終わり」についての話です。この「世の終わり」をどう見るかが、現在の生き方を方向付けます。イエスさまがここで語っていることは、世の終わりだけを見据えたものではなく、私たちが「今」をどのように生きるのかということと深く関わっているのです。

私たちは今、エルサレムの滅亡に相当するような、破局的な出来事に巻き込まれているわけではありません。しかし、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくようなことや、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくようなことなど、それなりの経験はあるでしょう。何をしても事態が悪くなっていく一方で、ただ自分の無力さに苛まれながら時を過ごすこともあるでしょう。

しかし、私たちが依り頼み、信じているイエスさまが、たとえ天体が揺り動かされるような世の終わりであっても、《あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ》(28)と言っています。《あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい》(31)と私たちを励まし、そしてそのような御自分の言葉について、《天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》(33)と宣言します。

私たちはそのようなイエスさまとその御言葉に信頼して生きる者とされたのです。であるならば、私たちが今目にしていることによって、未来の望みを奪われてはなりません。神の救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。人の子は雲に乗って来る。つまり、救いは、予期しない時に、予期しない所から、予期しない仕方で来るのです。それゆえに、私たちはいかなる状況にあっても、イエスさまの御言葉に依り頼んで、待ち望む者として、今を生きるのです。

《放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい》(34-36)。

「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」日に、「人の子」の前に立つことは、「人の子」に受け入れられて、その栄光にあずかることを指しています。《わたしはすぐに来る》という使信は、《アーメン、主イエスよ、来てください》(黙示録22章20)という待望の祈りにおいて自覚されます。最初期の共同体は、《マラナ・タ(主よ、来てください)》(1コリント16章22)という言葉を合い言葉として、主の来臨を待ち望んでいました。《放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍く》なると、この自覚が薄れ、いつの間にか、従来通りの生き方に逆戻りしてしまって、「人の子の日」が《不意に罠のようにあなたがたを襲うことに》(34)なります。その日が不意の出来事とならないように、私たちは日々祈りながら、その日が来ることを自覚しながら、歩んでいきましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子が私たちのために救いの御業を成し遂げてくださったことを感謝します。私たちがその救いの御言葉に固くとどまり、終わりの日に御子の御前に確信をもって出ることができますように助け、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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