33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
ゲツセマネの園で捕えられたイエスさまの身柄は、大祭司カイアファのもとから、ローマ帝国ユダヤ総督府に送られました。総督ピラトによる裁判において、イエスさまの十字架刑が言い渡されたのです。
ヨハネ福音書はイエスさまの刑死を、過越の小羊が屠られるその日の出来事として描いています。他の三つの福音書では、イエスさまが弟子たちと共にした過越の食事が、いわゆる「最後の晩餐」となった、つまり過越の食事の翌日にイエスさまは十字架につけられたと語っています。しかしヨハネ福音書は、イエスさまが十字架につけられたのは過越の食事をこれからとるであろうその日だったとしています。しかもイエスさまが死なれたのはその日の午後ですから、過越の小羊が屠られるまさにその時刻に、イエスさまが十字架の上で死なれたと語っているのです。ヨハネ福音書は、イエスさまこそが私たちの過越の小羊であることを示そうとしているのです。
過越祭の起源は、奴隷として苦しめられていたイスラエルの民がエジプトを脱出することができた、その救いが、過越の小羊が殺されることを通して実現したことにあります(出エジプト12章1-16参照)。同じように、イエスさまの十字架の死を通して、私たちの救いが実現したのです。この福音書で、洗礼者ヨハネがイエスさまを指して、《見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ》
(1章29)と言ったことが、これに繋がっています。イエスさまは、私たちの罪を取り除き、救いを与える神の小羊、過越の小羊として、十字架にかかって死んでくださったのです。
さて、ユダヤ人たちの訴えを聞いたピラトは、官邸に入り、イエスさまを尋問します。ピラトは《お前がユダヤ人の王なのか》
(33)と問います。ローマ帝国の意志において統治する総督であるピラトの関心は、そこにのみあります。つまりイエスさまが「自分はユダヤ人の王だ」と主張するなら、ローマ帝国のユダヤ人に対する支配を否定して自分こそが王だと宣言したわけですから、それはローマに対する叛逆となるのです。それ以外のユダヤ人たちの信仰の問題は、彼にとって気にかける価値もありません。
ピラトのこの問いに、イエスさまは《あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか》
(34)と答えました。これはピラトの問いへの答えにはなっていませんが、しかし私たちには重要な示唆となっています。つまり、イエスさまが王であるかどうかは、「誰かがこう言っている」という問題ではなくて、「私たちがイエスさまのことをどう思うか」が問題なのだ、ということです。直に対面したピラトを通じて私たちにも、イエスさまは「あなたは私をどう思うのか、わたしが王であることを信じ、受け入れ、私に従うのか」と問うているのです。ピラトはそれに対して《わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか》
(35)と言いました。ユダヤ人ではないピラトにとって、イエスさまをユダヤ人の王と認めるかどうかは、彼にその問いかけをすること自体が誤りです。彼は総督として事実を調べているだけなのです。
しかしイエスさまはピラトに、そして私たちにさらに語りかけます。《わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない》
(36)。「国」の原語は「王国」です。つまり「わたしの国」とは「わたしが王である国」という意味です。イエスさまは確かにご自分の王国の王なのです。しかしその王国は「この世には属していない」。この世の国は、この世の力や権力によって成り立っていますが、「わたしの国」はそのような力によりません。それは《わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦》
(36)うことのない王国です。イエスさまという王のもとには、この世の国とは違う王国が築かれているのです。このイエスさまの王国とどう関わるのかが、私たちすべての者に問われているのです。
ピラトは、「わたしの王国」というイエスさまの言葉に反応して、《それでは、やはり王なのか》
(37)と問いました。彼には、この世の力や権力によらない王国は理解できません。イエスさまがローマの権力と対抗する王であろうとしているのか、それだけが彼の関心事なのです。イエスさまはそれに対して《わたしが王だとは、あなたが言っていることです》
(37)と答えました。これも謎かけのような言葉ですが、イエスさまの思いは先ほどと同じです。
そしてイエスさまはさらに《わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く》
(37)と語りました。イエスさまは、真理について証しをするためにこの世に来ました。真理に属する人たちはそのイエスさまの声に耳を傾けます。「真理に属する人」とは、真理を受け入れ、それに従う人です。彼らはイエスさまの言葉を聞いて受け入れ、イエスさまが王であることを信じて従います。そこに、イエスさまの王国が築かれていきます。あなたは私が証ししている真理を信じて、私の王国の一員となるのか、とイエスさまはピラトに、そして私たちに問いかけているのです。
イエスさまのこの問いに対してピラトは、《真理とは何か》
(38a)と言って、ユダヤ人たちのもとに出て行きました。ピラトは、イエスさまが証ししている真理とは何か、と興味を持ったのです。しかし彼はその問いの答えをイエスさまに求めません。イエスさまと更に語り合って、真理とは何かを見出そうとはしていないのです。しかし、ピラトはユダヤ人たちに、《わたしはあの男に何の罪も見いだせない》
(38c)と言いました。そして、過越祭に一人の囚人を釈放する慣例があるから、それによってイエスを釈放しよう、と持ちかけたのです。しかしユダヤ人たちは、イエスさまではなく、強盗だったバラバを釈放することを大声で求めました。
私たちに本当に必要なことは、イエスさまが証ししている真理としっかり向き合うことです。その真理とは何か。それを一言に凝縮したのが、この福音書の3章16節です。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》
。神はその独り子を与えるほどに私たちを愛してくださっています。この神の愛こそが、イエスさまが証ししている真理です。
イエスさまはその神の愛を、言葉によって証ししただけでなく、十字架の死と復活によってそれを実現しました。イエスさまが上げられ、十字架にかけられて死んでくださったことにこそ、独り子をお与えになったほどに世を愛してくださった、神の愛が示されているのです。そして父なる神はさらに、十字架にかかって死んだイエスさまを復活させ、永遠の命を与えてくださいました。十字架と復活の独り子イエスさまを信じて仰ぎ、洗礼を受けてイエスさまと結び合わされることによって、私たちもイエスさまと共に永遠の命を生き始めることができるのです。イエスさまの十字架の死と復活によって実現した神の愛が、まさにイエスさまが証ししている真理です。真理とは何か、という問いへの答えは、イエスさまの十字架の死と復活において明らかに示されているのです。その真理は、この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さのすべてを、神の独り子であるイエスさまが背負って、十字架にかけられて死んだという驚くべき愛の真理、救いの真理です。この真理と向き合うことによって、私たちは新しく生きることができるのです。
疫病に苦しんでいたイスラエルの民は、モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇を見上げることによって生かされました(民数記21章4-9)。今私たちに神は、イエスさまの十字架の苦しみと死、そして復活による救いの真理を証ししてくださっています。私たちはそこにひとすじの道が示され、希望を与えられて、新しく生き始めることができるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。道であり、真理であり、命である御子を世に遣わしてくださったことを感謝します。日々、御子の声に聞き従って歩むことができますように、聖霊によって私たちを導いてください。私たちの救い主、永遠の王、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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