1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
初めに《イエスが神殿の境内を出て行かれるとき》
(1)とあります。イエスさまは弟子たちと共にエルサレムに来て神殿に入り、境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争していました。それが11章以降続いています。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出ようとした時に、弟子の一人が《先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう》
(1)と言ったのです。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王(マタイ2章に言及あり)が何十年もの歳月をかけて改築した大理石に輝く美しい建物でした。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み圧倒されたとしても、不思議ではありません。
けれどもイエスさまはこれに対して《これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない》
(2)と預言しました。この預言は紀元70年に実現しました。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ったのです。今では「嘆きの壁」などごく僅かな遺跡としてしかその跡を偲ぶことはできません。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っています。
イエスさまはここで、神殿の持っている問題性に目を向けていました。神殿はイスラエルの民のただ中に主なる神がいてくださるという恵みを覚えるための場所でした。ところがその意義が次第に逆転して、この神殿がある限り我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていました。イエスさまはその逆転を厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えているのです。
さらに、このみ言葉にはもっと深い意味が込められています。イエスさまは、神殿における礼拝そのものの終わりを見ているのです。神殿における礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦され、神の民として歩み続けることができるのでした。しかし、神の独り子イエス・キリストが世に来ました。まもなくご自分の体を、私たちの罪の贖いのための完全な犠牲として、十字架の上で献げようとしているのです。このイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪の贖いは完成し、犠牲の動物による贖いはその意味を失います。つまりイエスさまが来たことによって、礼拝は、イエスさまによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、み言葉である聖霊によりイエスさまとの交わりを与えられるものへと一新されました。神殿崩壊の預言は、神殿はもはや役割が終わったと語っているのです。
この神殿崩壊の預言は、世の終わりの預言と受けとられました。また14章58では神殿を冒涜する罪、死刑の理由ともされています。その預言を聞いたペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子は恐れおののき、イエスさまにひそかに尋ねました。《おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか》
(3)。彼らは、神殿の崩壊を、この世の終わりに起こる出来事だと受け止めています。ですから、「そのことはいつ起こるのですか」とは、この世の終わりはいつ来るのですか、ということであり、「そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」とは、この世の終わりが近づいたことを、何によって知ることができるかということです。
イエスさまはこの問いに答えて預言しました。先ず、《人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない》
(5-6)と語られました。ここには、世の終わりの到来を示す徴がいくつか挙げられています。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗って『わたしがそれだ』と言う者」、つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるのです。もう一つは「戦争の騒ぎやうわさ」です。これも世の終わりの一つの徴とされています。けれども、イエスさまは「そういうことが起こることは決まっているが、まだ世の終わりではない」と言っています。
さらに、世の終わりの徴として、いろいろな苦しみや天変地異が挙げられました。《民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる》
(8)のです。世の終わりの徴は基本的に苦しみであると示されました。しかし「これらは産みの苦しみの始まり」(9)です。つまり、これらの苦しみは確かに、世の終わりの始まりを示しているけれども、いつ終わりが来るのかは誰も知ることができない、とイエスさまは語ったのです。
弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを前もって知り、それに応じて策を講じたいと考えます。けれどもイエスさまは私たちに、そのような見通しを立てることを許しません。神のみ業は、人間の計算に入れたり計画の中に組み込んだりするべきものではなくて、心して待つべきものです。イエスさまはそのことをここで教えているのです。
それと同時に、このイエスさまの言葉は、世の終わりに、さまざまな惑わしや苦しみが襲いかかって来ることを教えています。偽の救い主が現われ、戦争の苦しみも、天変地異による苦難も起こります。その意味では、弟子たちが、そして私たちが感じている、世の終わりに恐ろしい破局が訪れるという恐れは正しいのです。世の終わりに向かう中で私たちはそれらの苦しみを体験していくのです。しかしイエスさまがここではっきり語っているのは、そのような苦しみ、破局が終わりなのではなくて、それを経て、神による救いが与えられることです。苦しみは、救いの完成に至るために通らなければならない道です。ですから、忍耐して、神による救いの完成を待つことが大切なのです。
9節以下には、その苦しみが迫害として襲いかかって来ることが語られています。そしてこのような迫害も、イエスさまの時代から今に至るまで、形はいろいろと違ってきますが、ずっと続いているものです。今日の私たちには表立った迫害はないかもしれませんが、信仰のゆえに、周囲の人々と様々な軋轢(あつれき)が起こることは誰もが体験します。そのような軋轢を介して、私たちは既に世の終りの始まりを体験しているのです。そしてイエスさまは、私たちが受けるその迫害の苦しみが、意味のある、目的をもった苦しみなのだと言っています。
9節の終わりに《また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる》
とあります。迫害は同時に、イエス・キリストのことを人々に宣べ伝えていくための機会となるのです。その機会を捕えて私たちがイエス・キリストを証ししていくことによって、伝道の前進という実りを生むのです。それゆえにこの苦しみは《産みの苦しみ》
(9)と呼ばれているのです。それは信仰による新しい命を生み出すための苦しみ、救いの前進のための苦しみ、希望のある苦しみです。
信仰のゆえに受ける苦しみの中で、耐え忍んで信仰を守り通し、イエス・キリストを証ししていく、そのようなことがこの私にできるだろうか、と誰しもが思います。私たちは自分の力で迫害に負けずに信仰を貫き、証しをしていくことなどできません。それを私たちにさせてくださるのが、聖霊です。聖霊は私たちの目を開き、イエス・キリストによる救いの完成を見させてくださいます。私たちは苦しみの中で耐え忍んで信仰を守り抜き、イエス・キリストの福音がすべての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子をとおして、私たちが生きる時も死ぬ時も、体も魂もすべて慈しみ深いあなたの御手のうちにあると教えてくださったことを感謝します。聖霊を降して、御国を目指して歩む私たちを導いてください。救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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