38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
きょうの箇所の前半(38-40)には、イエスさまが律法学者たちを鋭く批判する言葉が記されています。こうして律法学者たちの体面を傷つけたために、イエスさまは十字架につけられたのです。
《会堂では上席》
(39)というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場、シナゴーグにおける、聖書を納めた箱の前の席です。その席は一般の人々の席に向かい合っており、礼拝を司る人の席です。また彼らは、《宴会では上座》
(39)、つまり主賓の席を求めます。彼らがそのように人々から尊敬を求め、上席に着くことを求めるのは、必ずしも彼らの個人的な名誉欲だけによることではありません。彼らは自分たちが神のみ言葉である律法を研究し、律法に従う生活をし、人々にもその律法に従う生活を教える立場にいることを常に意識しているのです。その彼らが尊敬され、尊重されるのは、本来は、神のみ言葉が尊ばれ、大事にされていることの例証です。そのようにみ言葉を尊重するがゆえの尊敬を受けていた律法学者たちでしたが、しかし、いつのまにか自分たちを尊敬し、重んじることを求めるようになってしまいました。
また、彼らが《やもめの家を食い物にし》
(40)ているとも語られています。「やもめ」は、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめたちを指します。律法学者たちはそういう金持ちのやもめたち訪ねては、いろいろなことに寄付をさせたのです。そのようにして、やもめたちの財産を食い物にして自分たちの名声を高めようとしたのです。また彼らは《見せかけの長い祈りをする》
(40)ともあります。知識を元に人前で長い祈りをすることで、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしているのです。
律法学者たちはこのように、自分たちが人よりも尊ばれることをいつも求めていました。神のみ言葉である律法も、祈りも信仰も、そのための道具になっていたのです。イエスさまはそのような彼らを批判して、《このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる》
(40)と語りました。律法学者たちが一般の人より高い尊敬を受けることを求めているなら、神の裁きにおいても、より厳しい裁きを受けるのが当然だと言うのです。私たちはこのイエスさまの言葉に胸のすく思いです。当時の人々も同じだったことでしょう。
しかし、イエスさまのこの言葉は、律法学者たちに対して、その偽善を批判するために語られたものではありません。冒頭に《イエスは教えの中でこう言われた》
(38)とあったように、イエスさまが語っている相手は律法学者たちではなく、教えを聞くために集まって来ている人々です。その人々に向かってイエスさまは、《律法学者に気をつけなさい》
(38)と言ったのです。あなたがたも律法学者たちを同じようにならないように注意しなさい、ということです。
常に人の目を気にして、人と自分をいつも比較し、自分を少しでもよく見せようとしているという指摘は、律法学者たちに限らず、私たちにも当てはまるのではないでしょうか。
後半の41節以下には、その人の目、人の評価にまったく左右されずに生きている一人の女性のことが語られています。エルサレム神殿には、賽銭箱がありました。その賽銭箱は、「婦人の庭」、つまりユダヤ人の女性はここまで入ることができるとされていた場所に置かれていました。イエスさまはその賽銭箱の向かいに座って、人々が献金を投げ入れる様子を見ていました。《大勢の金持ちがたくさん入れていた》
(41)とあります。そこに一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は、先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなくて、「貧しいやもめ」です。そのやもめが賽銭箱に、《レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス》
(42)を入れたのです。新共同訳聖書の付録の通貨表を見ると、「レプトン」は、「ローマの銅貨で、1デナリオンの128分の1」とあります。つまりレプトン二枚、一クァドランスは、1デナリオンの64分の1になります。1デナリオンが、労働者の一日の賃金でしたから、その64分の1の献金は当時としてもかなり小額だったことが分かります。周囲の人々から冷たい反応が起る光景が想像できます。
しかしイエスさまは弟子たちを呼び寄せて、《はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた》
(43)と語りました。貧しいやもめが献げたレプトン二枚の方が、金持ちたちの多額の献金よりも、神の前ではたくさんの献げ物なのだ、とイエスさまは言ったのです。それは、金持ちたちは《有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたから》
(44)です。この言葉を、献金の価値は金額の大小によって決まるのではなくて、その金額がその人の収入の内で占める割合によって決まる、と解釈するのは誤りです。
イエスさまが着目するのは、このやもめが自分のすべてを神に献げ、委ねたことです。彼女は乏しい生活費を全部神に献げてしまいました。それは、自分の生活をすべて神の恵み、養い、導きに委ねたということです。
私たちが自分で自分を守り、自分の安心を自分の手の内に確保しておこうとしている限り、すべてを神に献げることはできません。だから自分のものを確保した上で、余ったものを献げることになります。ですから、貧しいやもめが生活費も含めた全部を献げたということは、つまり、彼女が自分で自分の安心を確保しようという思いから完全に自由になり、神の恵みにすべてを委ねているということなのです。
そして同時に彼女は、人からの評価、人との優劣に捕われた一切の思いからも解放されているのです。金持ちたちが多額の献金をしている中で、レプトン銅貨二枚をさし出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底できないことです。しかし彼女は、周囲の冷たい目、軽蔑のまなざしにもかかわらず、レプトン二枚を献げました。それは彼女が、自分を見ている神のまなざしの中で生きているからできたことなのです。彼女が神を心から愛し、信頼し、その養いと導きに依り頼み、自分のすべてを委ねている、その彼女の心に、神のまなざしは注がれています。そのように人の心を見る神の目の前に立っているがゆえに、彼女は、人の目を気にすることから、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから、解放されているのです。
私たちがあの律法学者たちのようにではなく、このやもめのように生きていくことは、単に人からどう評価されようとどうでもいいと決意をするだけでは実現しません。そこにはかえって我が儘で傍若無人な生き方が生まれたりもします。社会の中で人々と共に生きている以上、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出しているとも言えるのです。そのような生来の私たちを、人の目を気にすることから解き放ってくださるのは、私たちに注がれている神のまなざしです。
それと同じまなざしをもって、イエスさまは今私たち一人一人の歩みを見ているのです。イエスさまの慈しみに満ちたまなざしの中で生かされることによって私たちは、この貧しいやもめのように、人の目から自由になって、自分の力、持っているものを、それがどんなにちっぽけなものであっても、心をこめて神に献げることができるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は一人の貧しいやもめを見逃さず、その献げる心を受け止めてくださいました。私たちのためにすべてを献げてくださった御子の恵みを覚えて、私たちも御子にすべてを委ねて歩む者としてください。救いイエスさま・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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