1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。/5谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、/6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
イエスさまが公の舞台に登場するのは、洗礼者ヨハネの洗礼運動の中からです。それで、イエスさまの宣教とその働きを語り伝える福音書は、洗礼者ヨハネの登場から始まるのが基本的なパターンです。ルカは歴史家として、洗礼者ヨハネの活動の歴史的状況と、その宣教内容の実際をやや詳しく描きます。
まずは、その歴史的状況です。ルカは、これから述べる出来事の発端が《皇帝ティベリウスの治世の第十五年》
(1)であると明示します。ティベリウスは、ローマに帝制を導入して初代の皇帝となったアウグストゥスの後を継いで第二代の皇帝となり、紀元14年から37年までローマ帝国を統治しました。その「治世の第十五年」は紀元28年か29年になります。この年は、洗礼者ヨハネの宣教活動の開始の年であると共に、イエスさまの登場の年でもありますから、重要です。
次に、この出来事が起こった場所とその政治状況です。洗礼者ヨハネの活動とそれに続くナザレのイエスの活動は、《ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき》
に起こったことだと、世界の歴史の中に位置づけます。
ヘロデ大王が前四年に死去したとき、彼は支配領域を三つに分け、三人の息子に統治を委ねました。彼らはローマから「領主」の称号を与えられて、その統治を認められました。南のユダヤ・サマリア・イドマヤ(旧約名エドム)の領主となったアルケラオスは、領民を残酷に支配したので、民は皇帝に訴え、アウグストゥス帝は彼を解任します(6年)。それ以後、この地域はローマから派遣される総督が統治する総督直轄領になります。洗礼者ヨハネとイエスさまの時代の総督がポンティオ・ピラトです(26-36年)。
ヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレア(ヨルダン川東岸)を受け継ぎ、前4年から39年まで統治します。洗礼者ヨハネとイエスさまの活動はこのヘロデ統治の地域と時期になるので、深い関わりをもちます。
同じくヘロデ大王の息子の一人のフィリポがイトラヤとトラコン地方(ガリラヤ湖北東に広がる地域、現在のゴラン高原を含む)の領主となります。
アビレネは、フィリポの領地のさらに北に続く細長い地域ですが、この領主は福音書の出来事とほとんど関わりはありません。
このような政治的な支配者よりも重要なのが、当時のユダヤ教社会の宗教的指導者である大祭司です。政治的には三分割されていますが、以上の地域は、サマリアとアビレネを除いて、ユダヤ教徒が多数を占める地域です。ユダヤ教徒でないギリシア人もいましたが、この地域のユダヤ教徒を統治する大祭司は王のような強大な権力をもち、その地位は絶えず争奪の的でした。大祭司は原則として一人ですが、この時期の大祭司としてアンナスとカイアファの二人の名があげられています。アンナスは6年から15年まで大祭司職にありましたが、退いてからも絶大な権勢をふるい、五人の息子と孫までも大祭司の地位につけました。このようにアンナスによって操られる大祭司の一人で、洗礼者ヨハネとイエスさまの時代に大祭司職にあったのがカイアファ(アンナスの女婿、在位18-36年)です。このような実情をルカは「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と伝えています。この二人の大祭司は、イエスさまの裁判の時に登場します。
ヨハネが洗礼(バプテスマ=浸礼)活動を始めたのは、《神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った》
(2)からです。「荒れ野」は、イスラエルの民がその神(ヤハウェ)と遭遇し、神から啓示を受け、神の民として形成された場所でした。それは、モーセに率いられてエジプトを脱出し、四十年間荒れ野を旅した物語に鮮明に示されています。それに限らず、イスラエルの預言者たちの多くは、荒れ野で神の啓示を受けたのでした。洗礼者ヨハネが啓示を受けたのも「荒れ野」においてです。
多くの学者がこの「荒れ野」とはクムランにあったエッセネ派の修道院ではないかと推察しています。エッセネ派とは、ユダヤ教の一派で、共産,独身,採食,律法を尊重,動物犠牲に反対したため神殿に入れなかった者たちです。エルサレムから東に下り死海に至る地域は荒涼とした荒れ野で、死海西北岸のクムランの山地には建造物の廃墟があり、それがエッセネ派のユダヤ教徒が修道院生活を営んだ建物跡であると考えられています。彼らをクムラン教団と同一視する学者も多くいます。
祭司の子であるヨハネは、幼いときからこのクムラン教団に預けられ、そこで育ったと推察されます(1章80参照)。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」であり、イザヤ書40章3-5節の預言を成就する者とされていますが(3章4-6)、この預言はまさにエッセネ派の人たちがエルサレム神殿体制を批判して荒れ野に逃れたことを根拠づける預言の言葉でした。
上記の通り、洗礼者ヨハネはクムラン教団の一員であったか、少なくともエッセネ派と深いつながりのある人物であったと見られますが、ヨハネが「荒れ野」で神の言葉を受けて洗礼を授ける活動を始めたときには、ヨハネは彼らから出て離れて独自に、差し迫った終末到来の使信をイスラエルの民に広く宣べ伝えたものと思われます。
神の言葉を受けたヨハネは、《ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え》
(3)ます。「荒れ野」には、呼びかける相手(聴衆)はいません。また、洗礼(バプテスマ=浸礼)は水に浸す儀礼ですから、水のあるところでしか行えません。ヨハネは特定の場所に水槽を造って、そこで洗礼を授けるのではなく、広くイスラエルの全土に呼びかけるため「ヨルダン川沿いの地方一帯」に出て行って洗礼を宣べ伝えます。ヨハネが洗礼を行った「ヨルダン川沿いの地方」について、ヨハネ福音書は《ヨルダン川の向こう側のベタニア》
(1章28)とか《サリムの近くのアイノン》
(3章23)というような地名をあげています。
ヨルダン川は北の山地から発してガリラヤ湖に注ぎ、ガリラヤ湖を出て南に流れて死海に注ぎます。ヨハネはその沿岸地方一帯で洗礼を行います。ベトサイダの住人であるペトロたちは、ヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐ場所の近くでヨハネから洗礼を受けたのでしょう。イエスさまも同じ場所で洗礼を受け(マルコ1章9他)、そこでペトロたちと会ったと推測する学者もいます。
洗礼者ヨハネは、従来個人がそれぞれ自分で行なっていた水による洗い清めを洗礼者自身の手で「他人に与えた」最初の人です。彼は受ける者を水の中に「浸す」方法をとったので、「浸す者」(バプティスト)と呼ばれました。イエスさまも彼に倣って洗礼を行なったので(ヨハネ3章25-26;4章1-3)、キリスト教の洗礼はここから発祥したと考えられます。
洗礼者ヨハネの告知は、すぐ後に見るように、神の終末審判が迫っているというもので、その裁きに備えて悔い改めることを求める説教でした。当然、悔い改めは神に受け入れられることを予想していますから、悔い改めは「罪の赦しのための」と表現することができます。このような洗礼者ヨハネの告知を「罪の赦しを得させる悔い改め」と意義づけたのは、キリストの十字架を贖罪として告知した最初期のキリスト信仰の共同体であったと考えられます。
共観福音書はみな洗礼者ヨハネの洗礼運動を預言の成就として、イザヤ書を引用しています。これは、洗礼者ヨハネの活動から始まるイエスさまの出現が、預言者が終わりの日に起こるとしたことの成就であるとする福音の基本的な使信の表現です。
ルカはイザヤ書を引用する際、40章3-5節を引用しています。イザヤ書40章は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民がやがて解放されるという預言ですが、それが洗礼者ヨハネの出現によっていよいよその終末的な成就、すなわち人間の罪と死の捕囚からの解放が始まったと宣言しているのです。今は異邦の諸国民を含めて《人は皆、神の救いを見る》
(6)時です。
祈りましょう。天の父なる神さま。洗礼者ヨハネも御子イエスさまも「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。私たちが御国の福音を聞いて、本当に悔い改めて神に立ち帰ることができるよう聖霊をくだし、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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