Sola Gratia

奨励「信仰によって生きる」

「信仰によって生きる」 ――ローマ人への手紙 一章一六-一七節――

私は普段はみなさんと一緒にこの大学の大学院で学んでいるのですが、きょうはこうしてお話しをする機会が与えられたことを感謝しております。

私はマルチン・ルターの宗教改革に直接につながるルーテル教会の牧師でして、きょうの聖書の個所は、宗教改革の教会にとって、大事な聖書個所でありますから、若いときからたびたび先輩の説教で聞き、自分でも語ってきたテキストです。最近、私はこの言葉の力を再認識させられる経験をしました。そして、その経験は、昨年、五九才になって聖学院に入学するきっかけともなったのです。それで、きょうはその経験をお話しさせていただきたいと存じます。

いまから三年前に、私は冠動脈のバイパス手術を受けました。それまでの私は健康に恵まれ、一度も入院したことはなかったのですが、狭心症といって、心臓に栄養を送る冠動脈が詰まるために、胸が苦しくなる病気になりました。そこで生まれてはじめての入院、手術となったのです。血管が詰まっている四個所にバイパス道をつけて血の流れをよくする手術です。一本の道は左の胸の動脈をはがして、もう一本は胃の動脈をはがして、冠動脈の詰まった個所の先につなげる。他の二本は左脚の腿の付け根からからくるぶしまでの静脈を使いました。胸をひらいて太い血管を人工の心肺機械につなぎ、心臓を停止させておいて、バイパス道を付ける。そしてこんどは、人工心肺につなげていた動脈を自分のものにつなげ直して、自分の心肺で呼吸を始めると、手術は無事に終了です。

ここまでは、やや長い前置きでした。きょうお話ししたいことは、ここからです。手術が無事に終わっても、まだ麻酔が効いていて、意識が完全には戻っていない間の経験です。看護婦さんが定期的に喉の奥から痰(たん)を吸い取ってくれます。痰に細菌が繁殖して感染症にかかるのを防ぐためです。私は気がつくと、看護婦さんに逆らって逃れようとしていました。看護婦さんがスポイトを喉の奥に入れるたびに、苦しがって、いやいやをして首を振るのです。看護婦さんに「危ないですから、静かにしていてくださいね」と言われても、無理に首を動かすのです。一度心臓を止めて生き返ったというのに、まだ体に力が入らないうちに、もうこんなことをしている。心臓を止める前とまったく同じ自分。この自分は根っから醜いと感じました。またこの自分と付き合って生きなければならないのかと、自分でもがっかりです。意識が戻るや、もう自分で自分をもてあましているのです。

他方、その日の私は終日うつらうつらしていて、繰り返し同じ夢を見ました。私はパウロのローマの信徒への手紙を説教しています。そのテキストが先ほど読んだ個所です。私は夢の中でこう語っている。神は人を分け隔てしない方で、すべての人を愛しておられる。キリストの十字架はその愛を表わしている。人が救われるには、自分の善行によらず、ただキリストの無償の恵みに信頼し、カラの手でそれを受け取ることでよい。キリストの十字架こそが、人を救う神の力だ。義人を招くためではなく、罪人を救うためにこそキリストは来られたのだ。

それが、どうやら若い時分に親しんだバルトのローマ書講解の吉村善夫訳らしいのです。退院して、本を開いてみましたが、たしかにそれでした。今の学生たちには馴染みがない言葉かも知れませんが、こうあります。

「なぜなら私は救拯使信を恥じはしない。けだしそれは、ユダヤ人を始めとしてまたギリシャ人にも、すべて信ずる者には救いを齎す神の力である。なぜなら神の義はその中に顕われるから。すなわち、『義人は私の信実によって生きるであろう』と記されてある如く、それは信実から信仰に顕われるのである」ローマ書一章一六-一七節)。

もう一箇所、ローマ書三章二一-二二節も繰り返し引用していました。

「しかるに今や律法を別として神の義が顕われた。それは、律法と予言者たちとに証しされたもの、すなわちイエス・キリストを通して顕われた神の信実によってすべて信ずる者に与えられる神の義である」。

すべては神の人間に対する信実の愛から出たことである。神の信実とはイエス・キリストによる贖いとして宣教されているもので、すべての人に提供されている。私は自分の功績によらず、ただ信仰のみによってそれを自分のものとすることができる。すなわち、私はキリストの恵みのみによって救われるということを聞いたのです。私は死から蘇生させられても、同じ醜い私。神の助けにもかかわらず、なにも神にふさわしい変化をとげていない罪人のままである。救いに値しないこの私に、神はあくまでも信実で、恵みを注ぎ続けてくださり、命を支えてくださった。それが今までもこれからも私の生きる力の源である。

この夢の説教は、その時の私がまさに聞くことを必要としていたものでした。覚めている自分は看護婦さんに逆らうばかりだが、眠っている自分はパウロの語る福音を聞かされて喜んでいる。この二重の自分のあり方から、私は宗教改革者のいう「義人であると同時に罪人」(simul iustus et peccator)――私は現に罪人だが、同時に信仰においては現に義人(神に受け入れられている)――私はこの福音の真理を確信し、深い安心を得ました。福音書によると、イエスさまは苦しむ人の病気を治すだけでなく、彼らが神に生きるように信仰を起こしていますが、私のばあいも同じでした。大きな手術を無事に守ってくださっただけに止まりません。神は感謝すべきかな!信仰の真実を教えて、悩める私に慰めと救いを与え、もう一度新たに、信仰によって生きる道を示してくださいました。

こういう事があって、自分のいま信じていることを、もっとよく理解する努力をしよう、宗教改革者の信仰をもう一度、学び直そうと決心しました。「ピエタス・エト・スキエンティア」(敬虔と学問)という本館の壁にある標語は、わたしの思いそのものです。私は三十年以上、牧師をしていますが、この大学には、私が教わりたい先生が大勢おられます。それで、この大学に入学しました。いま私はここで期待どおりの教育に満足して、修士論文に励んでおります。若い方たちにも、ぜひここで十分に学んでいただきたい。また福音を通して、神さまの恵みの中に立ち続ける信仰を自分のものとして掴んでいただきたいものと願っています。

祈りましょう。

愛する神さま。み前に罪人である私をこのままに愛し、御許に招き入れてくださっていることを感謝いたします。あなたがご自身の約束に信実で、イエス・キリストを通してつねに私たちを支えてくださっていることを感謝します。神さま、あなたがくださる神の義を、私たちがただ信仰をもって受け容れることができますように。そして、学園で持たれている礼拝や聖書の学びがそのために用いられますように、主イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン。

2003年6月25日、聖学院大学全学礼拝にて


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