Sola Gratia

自己紹介(旧)

高野公雄(たかのきみお)と申します。このウェッブサイトの管理人をしている、池上ルーテル教会(注: 2003年当時)の牧師です。どうぞよろしくお願いいたします。

牧師になるまでの略歴

1942年10月16日の生まれの満60才。生れも育ちも横浜で、JR横浜駅の西口から昔はトロリーバスが走っていた三ツ沢に住んでいました。道がカーブするところなどでパンタグラフが架線から外れて、急に動かなくなることがありましたね。覚えていますか? 三ツ沢小学校に通っている間は、引揚者などによる人口増で学年の途中でクラス数が増えることもありました。クラス名が、たしかB組、赤組、2組と変わったと思います。学校が火事で焼けたことも覚えています。火の粉がわが家まで降ってくるような大火事でした。焼け跡で、給食用の脱脂粉乳の焦げたのを食べてみました。その味は忘れましたが、たぶん旨いものではなかったと思います。街頭テレビに力道山のプロレスを見にいったことや、お正月に箱根駅伝を横浜駅近くに見にいったことを覚えています。同級生がみな還暦を迎えた昨年、同窓会で集まり、多戸操子先生からお祝いの言葉とプレゼントをもらったのが感激でした。当時は大人と子どもの隔たりだったのに、今になってみると同じ午年の12才違いに過ぎないことに気づきました。

ガーデン山の上のほうにできたばかりの松本中学校に進学しました。山肌の削り跡も生々しい、まだ雑草さえも生える前の校庭でした。卓球部に入りました。二年生になって初めてホームルーム担任が男の先生に当たり、妙にうれしかったものです。生まれてはじめて女性支配から解放された感がありました。保育園長と保母さん、小学校校長先生と六年間の担任教師、中一の担任教師がすべて女性でしたから。もともと女性の能力への偏見というものがないのは、こういう生育歴のおかげだと思っています

次は、わが家のすぐ坂上にある横浜翆嵐高校に進学しました。この学校もわたしが子どもの頃に火事で丸焼けになったことがあり、わたしは消防班員となりました。さっそく、近くの土手のススキが燃えて火事になり、真面目に出動して消火器で消しました。汚れた学生服は畑の持ち主がただでクリーニングしてくれました。そんなこんなで今でも火事には感情が高ぶります。

滑り止めで受けた武蔵大学経済学部に入りました。60年安保闘争の後で学生運動はばらばら、女性にももてませんでしたし、心はうつろでした。そんなときラジオのルーテルアワーを聞いて、通信講座を受け、そこで教えてもらった青木通りにある 「横浜泉ルーテル教会」 に通うようになりました。三年生のクリスマスに、ついに思い切って、Lutheran Church--Missouri Synodから送られた宣教師トマス・ゼンダー先生から洗礼を受けて、ルター派クリスチャンになってしまいました。

大学卒業後、一年間銀行員を経験しているうちに、牧師になろうと決心して、仕事をやめました(なぜ洗礼を受けたか、なぜ牧師になろうとしたかは、長い話しになるので、いつか別の項目を起こして書くつもりです)。そして、日本ルーテル教団の神学教育プログラムに入って、中野区鷺宮にあった「日本ルーテル神学校」の学生(神学生)となりました。飯田橋にある 「東京ルーテルセンター」 の四階が神学生の寮でした。神学校が三鷹に移転した後、そこは「いのちの電話」のセンターとして使われるようになっています。

神学生の間に、70年安保闘争、学園紛争、それに大阪万博や靖国神社国家護持法案などを経験し、キリスト教は単に心の平安を与えるだけのものではなく、社会を民主化する力でもあることをあらためて意識させられました。

1970年に神学校を卒業し、小樽オリーブ・ルーテル教会の牧師を振り出しに、牧師歴33年になりました。池上ルーテル教会の牧師になって四年目に入っています。教会の裏手にある牧師住宅で、妻と二人の娘と、満16年になる老犬とともに暮らしています。妻は花が大好きで、教会を花で飾るのを趣味にしています。一度、見に来てください。

現在、池上教会の牧師のほかには、教団の機関紙「教会だより」の編集長と、教団のウェッブページの管理をしています。仕事のほかには、前述したアメリカの姉妹教会の1960年代70年代における神学論争を大いに関心をもって調べています。

昔は小説を読むのが趣味でしたが、いまは無趣味になりました。しかし、長年のヤクルト・スワローズのファンです。幼い頃、三角ベースの野球で遊んだものですが、小学校時代からの親友の横山君が野球が上手くて、野球への興味が続きました。立教の長島茂雄のファンだった歳の離れた姉に神宮球場に連れて行ったもらい、わたしは長島や杉浦や砂押監督のファンになったのですが、砂押氏はその後、国鉄スワローズの監督になりました。それ以来のスワローズ・ファンです。

牧師としての転任歴

神学生の最終学年では、半年間、小樽オリーブ・ルーテル教会で、當間俊雄牧師のもとで、ヴィッカー(実習)をしました。当時は、青函連絡船で北海道に渡ったものです。この実習のために東京を離れている間に、神学校と寮は、三鷹市大沢のICUと東京神学大学の隣に引っ越していました。実習を終えて神学校に戻ってみたら、隣の両大学には機動隊が入る騒ぎとなりました。学園紛争のもっとも盛んな時期だったのです。そういえば、わたしも小樽ではベ平連とともに平和行進をしたりしていましたし、ごく控え目な運動でしたが、ルーテル神学大学・神学校のバリケード封鎖も経験しました。

翌1970年、卒業と同時に、その小樽教会に牧師として派遣されました。トマス・ゼンダー宣教師の帰国に伴い、横浜泉ルーテル教会が當間牧師を招聘したためめです。この年5月に教団の総会があり、自治宣言をしました。よど号のハイジャックとか三島由紀夫の割腹自殺とかのあった多事多難な年でした。靖国神社国家護持の問題について真剣に考えたのもこの頃です。これはいま代替施設建設問題として復活してきました。

2年後に今度はわたしが埼玉県の飯能ルーテル教会に招聘され、転任しました。前任の川瀬彰吾牧師が浦和教会牧師兼聖望学園浦和校(現・浦和ルーテル学院)チャプレンとして招聘されたからです。わたしは3月に礼拝堂を完成させたばかりの聖望学園の聖書科の時間講師にもなりました。ちなみにその年4月には東京ルーテルセンターにパイプオルガンが入りました。5月には沖縄県が発足しました。

1976年4月に教団が自給化するのに歩調を合わせて、飯能教会も完全に自給となりました。このとき、目黒教会と麻布教会が合併して、六本木ルーテル教会となっています。それは田中角栄首相がロッキード事件で逮捕された年のことです。

飯能の牧師になって丸十年になったとき、この教会出身の大和淳氏が神学校を卒業する運びになりました。わたしはここで区切りをつけるべく、教勢の伸び悩みを理由に辞表を出し、あらたに立川ルーテル・キリスト教会(現・西東京ルーテル教会)に派遣されました。そこは牧師館がなかったので、はじめは青梅市の貸家に住みましたが、後に教会が福生市の新築住宅を牧師館として購入して、そこに住みました。教会の一階で行っていたシャローム(伝道喫茶店)が閉鎖にいたり、教会から人心を一新したいとして牧師の交代を願う意向が示され、立川での職務は3年で終わりました。この年、府中では神学生と大学生のための寮ルターハウスが発足しています。

1985年4月からわたしは群馬県の館林聖ルカ・ルーテル教会に派遣されました。教会も牧師館もなく、信徒の家を借りての集会からはじめましたが、教団の援助、信徒の努力により、土地を買い、教会堂と牧師館を建てて、伝道体勢を整えることができました。また同じ東武伊勢崎線の沿線にある竹の塚ルーテル教会の協力により、VYMによる英会話教室を始めました。常時100名以上の生徒が教会に出入りし、英会話の授業やバイブルクラスなどの活動に参加するようになりました。ここでの職務はいつの間にか15年になっていました。

2000年4月から、わたしはここ池上ルーテル教会に派遣先が変わりました。わたし自身もう若くはなく、長く奉仕した教会を離れるのは心が痛みました。他方、池上教会の前任の樫木芳昭牧師はここで17年間奉仕し、その間に古くなっていた教会堂の建て直しをしてくださっていました。小さな集まりですが、新しい人がときどき訪ねてくれるようになっています。また、わたしはここでも今年からVYMによる英会話教室を始めました。

牧師としての資質に悩みつづけた話

1)人間関係訓練

27才で念願かなって牧師になりました。前年に実習生として経験した小樽教会です。ところが前年とは違って、こんどは私自身が牧師です。説教、聖書研究、家庭訪問、牧会カウンセリング、それに幼稚園の経理や人事、父母との関係づくりなどなどが、ぜんぶ自分の責任となりました。前任者のときよりも教勢も落ちている。自分には荷が重い、自分はこの仕事に向いていないと悩みました。会員たちが非協力だというわけではなく、自分の資質の乏しさを痛切に感じていたのです。

そんなとき、立教大学キリスト教教育研究所 JICEが北海道で行う人間関係訓練に参加する奨学金を教団からいただきました。小人数で行うTグループでは緊張の連続でした。しかし、とにかく素顔の自分に気づくこと、他者に心を開くこと、その相互作用による人と人との交わりの温かさを体験しました。そして、ただ牧師という役割においてだけでなく、一人のキリスト者として信徒と、また隣人たちと交わることの大切さを教えられました。みんなで意見を出し合ってものごとを決める民主的意思決定の利点についても学びました。しかしまた、牧師には牧師としてのリーダーシップを期待されているのだという役割期待ということも教わりました。この研修を通して、近隣の他教団の牧師と親しくなれたのも、私には慰め、励ましになりました。

それでもなおしばらく、私は教義学とか聖書学とかの知識で武装することで、かろうじて役割を果たしている状況は変わりませんでした。しばしば悪夢を見ました。幸せに銀行で働いる自分と、それを辞めてしまってどこにも戻るところを失った虚ろな自分の姿を見るのです。どこかから落下する夢もしばしば見ました。これらの夢は、理論武装を解いたときのありのままの自分を啓示していると感じました。こんな状態が飯能教会に転任しても続いていました。

2)教団の自立

30才代に入って少し経ったころ、アメリカのルーテル教会の神学論争が激化し、組織が分裂するという大きな事件が起こりました。その余波で、日本ルーテル教団は急に自立することになりました。私も腹を据えて教会の自立に取り組まなければならないと覚悟しました。後ろ向きの夢を見なくなったのは、この頃からです。それでも行きつ戻りつしているのですから、なんとも遅い目覚めです。

3)いのちの電話ボランティア

立川に転任してすぐに出会ったのが、「東京多摩いのちの電話」のボランティア活動です。40才前後のことです。ここで私は教会員でも求道者でもない多くの大人たちと一緒に活動することを通して、牧師というよろいを脱いで、一人の生身の人間として人と接する訓練を受けるようになりました。そうすると、ひとくくりに「おじさん」、「おばさん」と呼ばれる人たちをひとりひとり個性をもった個人として見ることができるようになりました。自分の生き方でキリストを表わす、より正確にはキリストの恵みに頼っていることを表わす、そういう生き方を教わったと思います。

4)エニアグラム

もう会員の方から交代を望まれても、牧師が自分の一生の召しであることに迷いはありませんでした。群馬県の館林教会に転任しました。

牧師としての資質ということでは、私はもうひとつ、自分の性格の問題をもっていました。冷静で論理的にものごとを見る人であろうと努力し、他人にもそう思われたがっていましたが、自分は本当は非常に感情的な人間で、自分の感情をコントロールすることができず、まったく抑えつけているか、暴発するかのどちらかで、いずれにしろ後悔するのです。人間関係つくりがヘタなのです。知人に「人に会うことは楽しい、何もストレスにならない」という人がいました。私はその逆です。人に会うことはプレッシャーとなり、ストレスでした。まったく牧師向きの性格ではない。50才に近くなって、飯能の図書館でエニアグラムという九つの性格のタイプ論の本に出会いました。何冊か読み進めるうちに、「ああ、これで自分の性格がかなり良く分かった」という実感が得られるほどに、自分を見つめることができました。わたしはタイプ2ですね。はじめて弱点を含めて自分の個性とか性格を受け入れることができ、生き方がすいぶんと楽になりました。エニアグラムは純粋な科学ではないので、人に強く薦める気はありませんが、私には大きな助けでした。

5)パソコン通信

そのうちに、教団書記という役割りが回ってきました。三選禁止でその役を降りたら50才になっていました。書記のときに、必要あって覚えたパソコン通信を使って、ニフティーサーブのクリスチャン・フォーラム「ハレルヤ・ハレルヤ」、その後「聖書フォーラム」のアクティブ・メンバーとなりました。沢山の他教派の人、キリスト教に関心のあるノンクリスチャンと出会いました。私はあらためて、ルター派の信仰をもつ者として、その特徴を曖昧にするのでなく、はっきりと打ち出すことが他のクリスチャンにも役立つことを覚りました。ルター派教会には長所も短所もある。しかし長所があるのだから、それを他の人の益になるように用いるべきだ。そう思うようになって初めて、短所をもすなおに認め、他者に学ぶことができるようになりました。ルター派の信徒であり牧師であるという事実と課題を自然なことと自覚したのは、50代に入ってからのことでした。

以上が、日本という異教的文化土壌においてルター派の信徒・牧師であることに落ち着くまでの、私の長い歩みです。


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