Sola Gratia

いのち・魂のありか

聖書では、「いのち=息=聖霊」 だとくり返されています。また「深くあわれむ」ことを「はらわたが痛む」と表現します。イエスさまの時代、いのちまたは魂は、体のどこに宿っていると考えられていたのでしょうか。息の中でしょうか。はらわたのなかでしょうか。

聖書では、霊(旧約のルーアハ、新約のプネウマ)は動く空気(風、息)をも意味します。聖書によれば、神は霊、息吹でもって人を生きるもの、いのちの息をもつものとされました。ニケア信条に言うように、神の霊、聖霊はいのちを与える主なのです。

魂を心(旧約のレーブ、新約のカルディア)と言い換えて良いのであれば、どちらの言葉も心と心臓を意味していますから、心は心臓に宿っていると考えられていたと言えると思います。

ここで、新説をひとつ。イエスさま時代のユダヤ教では、人が死んで土葬されたら、人は土に帰り、尾てい骨から種が新しい芽を出すように、新しいいのちが芽吹くと考えられていました。火葬はその骨を痛めるからダメ、ミイラ処理も種を土に帰さなければ芽を出さないと同じでダメということでした。だとすると、いのちの種は尾てい骨に宿っていたといえるかも知れません。

ところで、人を体(ソーマ)と魂(プシュケー、精神)に二分する考え方はギリシャの考え方で、ユダヤ・キリスト教の考え方ではありませんから、そもそも「いのちや魂を体の中に探す」ような考え方は聖書にはないと答えるしかありません。もっとも、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10:28)などには、ギリシャ思想の影響が見られはします。古代ギリシャ詩人ユベナリスが言ったとされている、「健全な肉体に健全な精神が宿りますように」という祈りも、やはり二分的な表現になっていますね。

では、二分しない聖書の考え方はどうであったかと言うと、人間は、いのちを神から貸し与えられた生きた人格であって、その心身の全体が、からだ(ソーマ)と呼ばれました。この具体的な人間(ソーマ)は、いのちの創り主である神との関係で二つの生き方をすると考えられていました。ひとつは、肉(サルクス)による生き方(神と背反関係にある生き方)。もうひとつは、霊(プネウマ)による生き方(神と応答的な関係にある生き方)。この肉から霊への生き方への転換が、神に帰ること、回心なのです。

聖書後の時代のキリスト教世界では、人間を、心(spirit、霊)、知性(mind、魂)、体(body)と三分する考え方が広まり、今日に及んでいますが、あまりに煩雑になるので、この説明は省略します。

人間と神との関係を霊の生き方と肉の生き方というように二分して見る見方とは性質は異なりますが、人間を自然本性にもとづいて、三区分する見方は、オリゲネスという古代のキリスト教指導者から始まり、キリスト教の世界で長く引き継がれている見方です。霊(心, 精神, spirit, Geist)・心(魂, mind, Seele)・体(body, Leib)。日本では言葉がまだ決まっていなくて、心がmindとspiritのどっちの訳語にも使われるので、いっそう分かりにくくなっています。

マルチン・ルターはこの区分法を神殿にたとえて説明していますので、それを紹介しましょう。

人間の「霊」は、神殿にたとえれば「至聖所」であり、それは「不可視的、永遠的事物・神の言葉」と出会う場所であって、それを人は「霊性または信仰」によって感得する。

人間の「魂」は、神殿の「聖所」に相当し、「存在の理解できる法則」を人は「理性」によって認識する。

人間の「体」は、神殿の「前庭」に相当し、「可視的対象・世界」を人は「感性」によって働きかける。

以上、ルターの説明のこのような整理は、金子晴勇「ルターの宗教思想」日本基督教団出版局によります。なお、ルター派の哲学者キルケゴールは、心と体の総合を精神と呼んで、やはり三区分で人を理解しています。

(改訂: 2003-07-10)


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