Sola Gratia

グレゴリウス暦

そもそも1年というのは太陽年又は回帰年といわれるもので、太陽が春分点(昼間と夜の長さが同じになる日)を出発し、天球を一周して再び春分点に帰るまでの周期である。しかし、これも毎年少しの差があり、平均の長さは365.2422日である。

このため4年に1度閏年を設け、2月を29日として1日増やしている。すなわち、4年間の年平均日数は{(365x4+1)/4=365.25}となり、1年に0.25と0.2422との差0.0078日分長くなる、つまり128年で1日長くなる。

ローマ時代(紀元前45年)に制定されたユリウス暦は,この差を調整していなかった。そのため、西暦324年のニカイア公会議で決められた復活祭の基点となる春分の3月21日は、教皇グレゴリウス13世の頃(16世紀後半)には日付と季節とのずれは10日にも達し{(1582年-325年)X0.0078=9.8日}当時の春分は3月11日になっていた。

教皇は、改暦委員会を組織し、1582年10月4日の翌日を10月15日として10日飛ばし、閏年を400年で3回省くことにして春分が3月21日になるよう調整した新暦を実施した。これが、現在すべての国で共通に用いられているグレゴリウス暦である。

閏年は4で割り切れる年であるが、400年で3回省く方法として、西暦の4桁の最初の二桁が4で割り切れない年は閏年がない年とした。例えば1700年、1800年、1900年は閏年があったが、2000年は閏年が省かれない年であった。

1582年の10月5日から10月14日までの10日間の日付は、暦の上から失われた。この時期が選ばれた理由であるが、この期間にはキリスト教における重要な祭日が無かったことによる。また、曜日に関しては連続を保つことにし、10月4日(水)の翌日は10月15日(木)となった。

西暦の紀元

従来はキリスト教迫害で名高い皇帝ディオクレティアヌスの即位(AD284年)を紀元としていたが、525年にローマの修道院長ディオニシウス・エクシグウス Dionysius Exiguus(小ディオニシウス)は、キリスト誕生の日付をBC1年12月25日と推定し、翌年を紀元1年と決定した。当初は知識階層から反発があったようだが、結果的にひろく受け入れられて現在にいたっている。

彼は復活日の算定をしていたが、当時のユリウス暦によって月齢、曜日、月日が同じ関係に戻るのに532年を要すること、1月1日が新月の年を初年にするのが紀元として理にかなっていると考えた。それがBC1年1月1日であった。

日本での暦の採用

日本では、世界でも中国と並んで太陰太陽暦を磨き上げずっと使ってきた国である。しかし、明治政府が諸外国との折衝上などの理由で、西洋暦を採用することとなった。

明治5年12月3日を明治6年1月1日とすると政府が決めた。こうしてわが国は、明治6年(1873年)にユリウス暦を取り入れ、明治33年(1900年)からグレゴリウス暦を採用した。

グレゴリウス暦と地動説

ガリレオ・ガリレイが、天動説を斥け、地動説を支持したかどで、宗教裁判にかけられ、異端誓絶を強要された後、「それでも地球は動いている」と呟いたという逸話は、宗教が科学を完全には屈服させることができないことを象徴するエピソードとして有名である。

ガリレオが本当に「それでも地球は動いている」と呟いたかどうかは別としても、彼が、1633年に宗教裁判にかけられたことは史実であり、もし異端誓絶を拒んだならば、33年前にローマで火あぶりになったジョルダノ・ブルーノと同じ運命をたどったであろうことも確かである。

だが、意外なことに、ガリレオに先立って、地動説を提唱したコペルニクスの『天球回転論』は、コペルニクスの死後、1543年に何の検閲も受けることなく出版され、自由に読まれていた。これは、16世紀に、カトリック教会が、325年のニケア公会議で採用したユリウス暦と現実の季節とのずれを問題視するようになり、正確な暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由な研究を奨励しなければならなかったからである。カトリック教会は、決して地動説を容認していたわけではなく、コペルニクスの地動説も、実在性のない数学的仮説、計算を簡単にするための道具的便法として許可していたまでである。

地動説を宗教的な立場から最初に批判したのは、宗教改革の旗手、マルティン・ルターだった。ルターは、『天球回転論』が出版される4年前、地動説の噂を聞き、「このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない」と地動説の提唱者を批判した。カトリック教会も、1582年に、現在まで使われることになるグレゴリウス暦を制定すると、次第に天文学の保護者から抑圧者へと変貌を遂げることになる。

では、地動説は、『聖書』のどのような記述と矛盾するのだろうか。そして、それはどのような宗教的問題を孕んでいるのだろうか。『聖書』には、「太陽が昇る」とか「太陽が沈む」という表現が出てくる(詩篇19:6,伝道の書1:5)が、こうした表現は、地動説を信じている現在の我々も便宜上使っている表現であり、かつ特別に宗教的な含蓄があるわけでもないので、問題はない。問題となるのは、以下の二つである。

(1)まず、『聖書』には、神の支配のおかげで大地が安定し、不動となったと述べている箇所(詩篇93:1,96:10,104:5, 歴代志上16:30)がある。コペルニクスの『天球回転論』の出版を許可したときもそうであるが、キリスト教の聖職者たちは、地球が実際に動いていると言ってはいけないが、地球が動くことが理論的に可能だと主張することには問題がないと考えていた。これはたんなる妥協ではない。もしも、大地がもともと動きようがないとするのなら、大地が安定しているのは、神の支配のおかげではないことになる。大地の可動性は、神の偉大さを認識するためにはむしろ必要だったのである。

(2)『聖書』には、さらに、神の意志で太陽が静止したり、逆行したりすることが語られている箇所(ヨシュア記10:12-13,列王記下20:11)がある。特にヨシュア記の以下の箇所は、ルターが指摘して以来、天動説の根拠とされてきた。

「主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主に向かって言った、『日よ、ギベオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷に安らえ』。民がその敵を撃ち破るまで、日は留まり、月は動かなかった。これはヤシャルの書に記されているではないか。日が天の中空に留まって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。これより先にも、後にも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。」(ヨシュア記10:12-14)

もし、太陽がもともと動いていないのなら、太陽に「留まれ」ということは無意味になる。ガリレオは、この時太陽が止めた動きは自転だったという新解釈を出しているが、太陽が自転を止めたからといって、地球や月が公転運動を停止する必然性はない。

ちなみに、天動説は地球中心説と、地動説は太陽中心説としばしば同一視されるが、それらは別物である。

1620年に、教皇庁図書検閲聖省は、コペルニクスの『天球回転論』に何箇所かの訂正を命じている。それによると、第5章の宇宙の中心について述べた箇所に対しては、「地球が宇宙の真中にあると考えようが、真中から外れたところにあると考えようが、どうでもよい」と修正させているのに対して、「地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊している」第8章に対しては、章全体が抹殺の対象となりうるとのことである。ローマの教皇庁が、太陽中心説と地動説のどちらに目くじらを立てていたかは明白である。

『聖書』は、地球が宇宙の中心であるとは主張していない。これまで見てきたように、『聖書』との整合性で問題になったことは、大地が動いて、太陽が静止することなのだ。太陽中心説が迫害されるのは、それが地動説にかかわる限りにおいてなのであって、太陽中心説自体は、第一次的な迫害のターゲットではなかった。

ところで、私たちは、1851年のフーコーの振り子の実験から地球が自転していることを、1838年のベッセルによる年周視差の発見から地球が公転していることを知っている。しかし、コペルニクスやガリレオの時代には、これらの地動説の根拠は知られていなかった。コペルニクスは、天動説だと、火星天球と太陽天球が交差することになる不都合を回避するために地動説を提唱し、そして、ガリレオがその地動説を支持した根拠は潮の干満だった。どちらも地動説の根拠としては間違っている。


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