Sola Gratia

現代神学から見た処女降誕

イエスの処女降誕について、現代のルター派の教義学の標準的教科書「Christian Dogmatics」, 1984でアメリカの著名な神学者カール・ブラーテン Carl Braaten が述べていることを要約して紹介します。

使徒信条においてわれわれは、イエスは聖霊によりてやどり、おとめマリアから生まれた、と信仰告白する。啓蒙主義以来、これはもっとも論議をよんだ教理の一つとなった。現代の神学においては、エミール・ブルンナーが著書『仲保者』においてキリストの処女降誕を否定した。彼はそれを「生物学的骨董品」と呼び、ドケティズム[キリスト仮現説]と結びつく可能性を見ている。というのも、その説では聖霊が人間の父の機能を強奪しているからである。もしもイエスが実際に人間の父をもつのでないとしたら、彼はどのようにあらゆる面でわれわれと同じようでありうるのか。カール・バルトはブルンナーの議論を「へたな仕事」として退けた。ヴォルフハルト・パネンベルクはブルンナーの側に付いて、処女降誕にくみするバルトの議論が彼を「ローマのマリア崇敬への道の途上に」置かないかどうかと尋ねる。パネンベルクにとって「処女降誕の物語は伝説のあらゆるしるしをもっている」。彼は、「神学はイエスの処女降誕の概念を、彼の地上の生涯の始原に仮定されるべき奇跡的な事実として維持することはできない」と結論する。それほどに、処女降誕が使徒信条に入ったことは問題をはらんでいる。

教義学の一義的関心は、処女降誕を象徴として解釈することであって、自然の過程における風変わりな介入としてではない。自然の世界における処女生殖の頻度に対する科学的な探究は論点をはずれている。そのことは、イエス誕生の物語が指し示すところの啓示のリアリティに対するより深い洞察になにも貢献しない。処女降誕を生物学的な事実として保持しつつその論点を見逃すことは可能である。その同じ論点を処女降誕への言及なしに明らかにすることもまた可能である。パウロとヨハネの著作が、それを論じないことによって証明しているとおりである。それゆえ、その物語を生物学にはまって動きがとれなくさせないで、それをケリュグマ[宣教内容]の真理への象徴的証言として読むことが重要である。聖霊による妊娠の真理は、神が初めから--すなわち、復活をまってではなく、十字架上からでもなく、洗礼の時にはじめてでもなく、マリアによって彼が懐胎された瞬間から--キリストを通しての救いの創始者であった、ということである。この解釈は、キリストの先在という概念を強固にし、救済史の根拠を世界それ自体に先立つところの終末論的リアリティに置くというその同じ目的に役立つ。この物語は、彼が養子となるにふさわしいことを行うに先立つイエスの誕生においてみ霊の力にかかわることによって、養子論的キリスト論に抗して働く。この物語は、キリスト論自体の基礎における業の義の根を攻撃することによって、恵みのみの神学の正当性を証明する。

イエスの誕生における人間の父の排除は、古代におけるよりも現代のキリスト者にとってより疑わしいものとなった。もともとおとめマリアからのイエス誕生という信仰告白は、彼の真の人間性のしるしであって、彼の人類との連帯性がドケティズムによって否定されたことに対抗していた。イエスが他のすべての子どものように女から生まれた事実は、彼が真の人間存在であったという証拠であった。この物語の論点は、ドケティズムに対抗することであった。不幸なことに、処女降誕という象徴は、現代人の耳にとっては、もはや明らかな反ドケティズムの土俵をもたない。われわれ、どのようにこの物語が救い主の真の人間性に対する信仰への関心を具体化できたかを想像できない。人間の父性の不在がなぜ受肉における神の現存の真理をより明確にすることになるのか。父なる神は、われわれ人間の父の役割と競合しているのか。神は父なるものを創造して、それは「非常に良い」と見なしたのではなかったか。それならなぜ、人間の父は救いの業において排除されなければならないのか。もしもわれわれがイエスの真の人間性を証するという、この物語のもとの意図を把握するなら、われわれは古代から現在へと状況の変化がわれわれに悪さをすることを容認してはならない。しかし、もしもわれわれがこの物語を弁証論的にキリストの神性を証明するために、またはイエスの無罪性を説明するために用いるようなことがあれば、そうなってしまう。この物語は、われわれの自然的傾向が、それがもともと意図したことの反対を意味しているものと受け取るゆえに、ますますあいまいになった。


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