Sola Gratia

聖マルチン

ヨーロッパの教会でセイント・マーチンの像を見ましたが、どういう人ですか、という質問を受けましたので、少し調べてみました。

ヴァチカンの公式サイトを参照しますと、マルチンという名の聖人が二人います。

1)トゥールの聖マルチヌス St. Martin of Tours、司教(316年頃-397年)(祝日11月11日)

ローマ帝国の騎士身分だったが、キリスト教に改宗して修道者となる。フランスのポワティエにヨーロッパ最初の修道院を造った。おびただしい逸話や伝説がある。当時、教会は殉教者だけを聖人として認めていたが、殉教者ではない聖人として初めて認められたのが、マルチヌスである。ヨーロッパでは、彼は親しまれているため、人の名前をはじめ教会、学校などにマルティン、マルチン、マルティーノというように、その名をつけたものが多い。フランスでのキリスト教伝道の象徴的存在と目され、フランスの守護聖人とされている。

2)聖マルチヌス一世 St. Martin I、教皇殉教者(在位 649年-653年)(祝日4月13日)

5世紀から7世紀の教会には、「キリストは真の神であって人間ではない」(キリスト単性説)とか、「神としての意志はあっても人間としての意志はない」(キリスト単意説)という異端が出て、教会は揺れていた。マルチン1世教皇はラテラン公会議を開き、「キリストは神としての意志と働き、人間としての意志と働きがある」という教理を確立した。異端説を支持していた東ローマ帝国皇帝は、これを知って怒り、教皇を政治的陰謀をたくらむ者として告発し、病気中であるにもかかわらず捕えた。死刑の宣告をした後、教皇の位を剥奪したが、信者の反応を恐れて刑の執行はしなかった。追放の刑に減刑された教皇は、クリミア半島のケルソンで獄死した。教会はマルチンを最後の教皇殉教者として、記念している。

ということで、前者トゥールの聖マルチンの方がメジャーな聖人です。何かと話題に取り上げられるのは、この人です。マルチン・ルターは、11月10日に生まれたので、翌日の聖人の名前をもらいました。もう少し、この人について紹介しましょう。

トゥールの聖マルチン

マルチンはA.D.316年頃ハンガリーのサバリアで生まれ、北イタリアのパヴィアで育ちました。父親は皇帝騎兵隊の騎士隊長を務めており、マルチンも15歳の時に皇帝騎兵隊に入隊しました。そしてフランスのアミアンに派遣されて任務に励んでいたのですが、18歳の時に宿命的な出来事がありました。

マルチンは街頭で寒さにこごえる浮浪者を見て、ふと情け心が出て、彼に自分の着ていた服を刀で二つに切り、その半分を掛けてあげました。すると、その夜、彼の夢の中に天使に囲まれたキリストが現れたのですが、そのキリストが夕方彼が浮浪者に与えた半分の服を着ていたのです。その時彼はあの浮浪者がキリストの化身であったことに気づくのです。各地にある聖マルチン像はたいていこの逸話をもとにしています。

彼はこれがきっかけで334年に密かに洗礼を受け、キリスト教徒になりました。そして、キリストの教えに従い、戦うことはできないと言い出しますが、そういう彼をみんなは臆病者と笑いました。そしてアミアンの騎兵隊の隊長は彼を最前線に送り出します。

すると、マルチンは武器を投げ捨て、頭上に十字架を掲げて、静かに敵に向かって歩いて行きました。すると敵はみな武器を投げ捨て、マルチンの前にひれふしたのです。それを見て、隊長もマルチンの除隊を認めました。

彼はその後、ポワチエの司教聖ヒラリウスと出会い、彼の指導のもとで修道生活を始めます。360年ごろガリアに行き、リギュジェにヨーロッパ最初の修道院を創設し、多くの弟子とともに祈りと労働と宣教に力を尽くしました。

370年にトゥール(ツール)の司教に任命されるが、修道生活を続け、80人ほどの同志とともにマルムティエに第2の修道院を建てて、ここに隠棲し、397年の11月11日に没したと伝えられています。この修道運動は各地に広がり、マルチンが定めた祈り、労働などの規則は、後年聖ベネディクトの会則の手本とされました。彼は、司教として各地を宣教して巡り、病人を癒し、政治の乱れを正すことなどに力を尽くしました。

聖マルチン祭の行列

聖マルチンは民衆に親しまれて、たくさんのお話が結びついています。いくつかをご紹介します。

岩波新書に『ヨーロッパ歳時記』(植田重雄著1983年発行)によると、聖マルチン祭の日、子どもたちは提灯を振って城門までマルチンを迎えに行く風習があります。その提灯は子どもたちがそれぞれに画用紙で作ったものであり、この提灯に灯をともして聖歌隊が聖マルチンの歌を歌いながら行進します。その行列のほぼ真ん中当たりには大きな張りぼてのガチョウを台座に乗せて少年たちが担ぎ子どもたちの提灯はその後に続きます。この行列はマルチンを迎えに行く行列です。

やがて町の城門や村の入り口などで白馬に乗った聖マルチンが子どもの行列を迎え、両者は一つとなって大きな行列を作り町の教会に向かうのです。教会では喜びの鐘を鳴らし、聖マルチンは子どもたちに向かって迎えに来てくれたお礼を言い、この一年良い子どもであったことを喜び新しい一年も祝福されるように祈ってお菓子や果物を振る舞うのです。(これはマルチンが洗礼を受けるように教会に招くしぐさです)。このマルチンに扮するのはたいてい町長や村長で中世風の鎧や兜をまとい裏地が緋色のマントをかけています。子どもたちは古い蝋燭を置いて新しい蝋燭に火をつけてそれぞれに家路に急ぎます。この祭は子どもが主役で大人たちから祝われます。子どもたちはその帰り道で家々の前に立って歌をうたいます。クリスマスに行われるキャロリングを思わせます。すると家の人はマルチンにちなんで子どもたちにお菓子や果物を渡すのだそうです。聖マルチンは、聖ニコラス(サンタ・クロース)と同様、特にドイツやフランスでは子どもの聖者として親しまれているそうです。

マルチンのガチョウ

この日はご馳走としてガチョウを食べる習慣があるそうです。昔、「ニルスの不思議な旅」というテレビ番組で、ガチョウのモルテンがこの日に食べられそうになったのを助ける話がありました。これがきっかけで、ニルスはもとの姿に戻り、お話しがおしまいとなりました。その由来はこうです。聖マルチンが司教に推戴されたとき、辞退したくてガチョウ小屋に逃げ込んで隠れたが、ガチョウが騒いだために農民たちに見つかってしまって、仕方なく司教になった。その罰として、この日にガチョウのクビが切られるのだそうです。本当は、この日はゲルマンの収穫の神、ボーダンをまつる収穫祭にあたり、ガチョウなど動物をいけにえとして捧げた名残らしいです。

マルチンのワイン

また、聖マルチンは,372年のマルムティエ修道院の設立とともにぶどう畑を開墾し、ぶどうをロワール川流域の丘陵に本格的に導入した人物とみなされています。そのため彼は聖ヴァンサンとともに,ぶどう栽培者から崇拝される守護聖人となりました。そして11月11日の聖マルチンの祝日を利用して,葡萄栽培者たちは新酒の味見をする。この「新酒の味見」(マルティナージュ・ヴァン〉は伝統的な儀式です。

ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日も当初は11月11日だったそうです。収穫の早い村でワインが仕上がるのがこの前後だったのと、聖マルチンの日であったため、新酒を祝うのにはちょうどよいと思われたのでしょう。

ところが、11月11日は聖マルチンの日から第一次大戦の休戦記念日 fete[fete] de l'Armistice に変更されたため、別の聖人の日、聖アルベールの日である15日に解禁日を移したとされます。ただ、11月15日と決めてしまうと、土曜日や日曜日に重なった時に販売に支障をきたすため、フランス政府が1984年に11月の第3木曜日と定めました。

聖マルチンの夏

この日の前後に暖かい日が数日戻ってきますが、「小春日和」のことを、アメリカでは「インディアン・サマー」、フランスでは「聖マルチンの夏」ete [ete] de la Saint-Martin, Saint Martin's Summer、ドイツでは「老婦人の夏」と呼ぶそうです。マントを与えた日が11月11日で、キリストがその善い行為の記念として毎年この日の辺りに晴れた日をくださるのだそうです。これは、彼が楽園で味わうとこしえの春の印なのです。

アカペラ

音楽に関連する話もあります。聖マルチンが浮浪者に自分の外套を二つに切って分け与えたその片方は聖遺物とされました。マントのことをラテン語ではカペラ cappella といいます。やがて、聖マルチンの聖遺物としての法衣を入れる箱をカペラと呼び、さらにカペラを安置した礼拝堂をカペラと呼ぶようになりました。カペラは英語のチャペル chapel、ドイツ語の Kappele です。つまりアカペラ a cappella は chapel(チャペル=礼拝堂)で歌っていた音楽というわけです。

カペラはマントを指すラテン語 cappa(カッパ)から派生した言葉です。この単語がポルトガル語を通じて入ってきたのが雨具の「合羽」(かっぱ)、英語を通じて入ってきたのが女性が羽織る cape(ケープ)です。「外套を置いて」逃げることから escape(エスケープ=逃げる)という単語も派生しています。


雑文検索

キーワード


© Sola Gratia. 高野牧師のホームページ.

powered by freo.