ルーテル教会(ルター派)は、宗教改革の結果として生まれたプロテスタントの一派です。その宗教的信仰は、マルチン・ルターの諸原則に基づいています。彼は自分の名で呼ばれることには反対でしたけれども。ルターは、自分の望む改革をローマ・カトリック教会内で行うことができないと分かったときでも、彼は発展しつつあった新しい福音主義的教会を形成することよりも、むしろ信仰の諸問題に打ち込んでいたのです。彼の態度は保守的であり、改革派(カルヴァン派)の見方とは違っていました。
この絵が、ルターの紋章またはルターのバラと呼ばれているものです。
これは、マルチン・ルターがヴィッテンベルク大学の教授であったときに自ら考案しました。その年代は明らかではありませんが、1519年か1520年と推定されます。それから数年後、ルターの生国ザクセン選帝公国の君主、ヨハン・フリードリッヒ賢侯(在位1486-1525)は、この紋章を自分の印章つきの指輪に彫らせています。
それ以来、この紋章は、ルター派教会の公式のシンボルというわけではないのですが、彼の信仰を受け入れることを示すため、世界中のルーテル教会で、さまざまなデザインでさまざまな機会に用いられています。
この紋章には「薔薇の上に置かれたキリスト教徒の心臓は、十字架の真下にあるとき脈打つ」という題字が記されています。(上の絵では省かれています。) それは、「キリスト教徒の心臓は、キリストにしたがって苦難の十字架をわが身に担い、かくして十字架の真下に立つとき、まさに薔薇の上におかれることになる」という「信仰のもつ不可避的なパラドックス」を意味しているのだそうです。
ニュールンベルクの友人ラザルス・シュペングラー(讃美歌作者)に宛てた1530年7月8日(アスグルブルク信仰告白を国会に提出した二週間後)の手紙の中で、ルターは自分の紋章の意味を次のように説明しています。
第一に、自然な色のハートの中に黒い十字架があるが、われらを救い給う十字架の主を信ずる信仰を思い起こさせるものである。「なぜなら、心から信ずるものが義とされるからである」(ローマ10章10a)。
黒い十字架は、肉を殺し、苦痛を与えずにはおかないものであるが、ハートの色を自然に残しているし、我らの人間性を破壊するものではない。つまり、その十字架は生命を殺すものではなく、かえって保つのである。なぜなら、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17)からだ。しかし、十字架につけられた主を信じる信仰によってである。
しかし、このハートは白いバラの花の真ん中にはめ込まれている。これは信仰が、喜びと慰めと平安をもたらすものであることを示す。要するに、信仰はわれらを愉快なバラの野に運び込む。その平安と喜びはこの世の平安や喜びとは違う(ヨハネ14章27)ので、バラは白であって赤ではない。白は霊とすべての天使たちを表す色であるからだ。
さらに、バラのおかれている背景は空色である。それは、魂と信仰のそのような喜びが、来るべき天の喜びの始めであり、その喜びは、事実もうすでに今のわれらの喜びの中にすでに現在し、信仰によって受けることができ、しかしながら、いまだあらわになっていないことを示すものである。
そして金色の輪がそれらを囲む。それは、金が最良でもっとも貴重な金属であるように、天におけるそのような祝福は永遠に続き、あらゆる喜びと宝よりも貴重であることを象徴している。
これはわたしの神学の要約である。
ところで、「ルターのバラ」の方が好まれているようではありますが、ボヘミアの宗教改革者ヤン・フス(その名は「鵞鳥」を意味する)の預言のゆえに、多くのルーテル教会は伝統的に「白鳥」をシンボルとしています
伝承によりますと、フスは1415年7月6日の焚刑に際して、こう叫んだそうです。「きょう君たちは鵞鳥を火あぶりにしているが、百年ののちに白鳥が現われるあろう。その声を君たちは黙らせることができない」。(実際は1517年10月31日ですが)伝承では、百年後のこの日、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの教会の扉に九五か条の提題を打ちつけました。
この話のように、実際に、ルターの宗教改革は、イギリスのウィクリフ、イタリアのサボナローラ、チェコのフスらの改革運動のうねりの後に起こりました。
ローマ・カトリックの教理からルターが大きく異なる点は、以下の個条にあります。
この信仰原則の宣言は、ルターの二つの信仰問答書、改定されないアウグルブルク信仰告白、アウグルブルク信仰告白の弁証論、シュマルカルド条項、和協信条に見出されます。これらはすべて一致信条書(1580)にまとめられています。
洗礼は霊的再生に不可欠のものですが、その形式は特定されません。主の晩餐のサクラメントは保持されましたが、実体変化の教理は拒否されます。
礼拝の問題では、ルターは祭壇と祭服を保持することを選びました。彼は礼拝の式文を用意しましたが、個々の教会が定められた式文に従うよう縛られることはないという理解です。今日、ルター派のすべての教団がもつ統一された礼拝式文はありません。しかし、特徴的なことは、説教と会衆の歌に大切な位置が与えられていることです。
ルターの保守主義と16世紀ドイツの政治的状況のゆえに、ルーテル教会は領主たちに従属する領域的教会として発足しました。地域の組織がいまだ教会政治において重要な位置を占めますが、より組織化された教会に向かう傾向にあります。
ルター主義は、伝統的に教育を強調してきたので、世界中に多くのルター主義の学校、大学、神学校があります。18世紀の中葉以来、ルーテル教会はディーコネス運動に召された女性がキリスト者として奉仕するプログラムをもっています。ルター派信徒の世界人口は約6,100万人です。
ヨーロッパにおけるルター主義の歴史は、大きく見るといくつかの時代に区分されます。第一の時代は、1520年から1580年で、教理の確立の時代です。教理の論争、とくにも反律法主義についての論争が、ルターの生存時から始まっていましたが、彼の死後、アンドレアス・オジアンダーによって十字架上のキリストの死の意味についての論争が提起されたとき、いっそう燃え上がり、全ドイツの福音主義教会を揺り動かしました。これに反対する党派は厳格派のルター主義者であり、ローマやカルヴァン派とのいかなる妥協をも拒否しました。フィリップ・メランヒトンに率いられた穏健派は、和解に努力しました。
1580年から1700年までは、「正統主義」の時代と呼ばれます。正しい教理にほとんどすべての強調が置かれ、信仰とは知的な同意であると理解されました。17世紀の初めに、ドイツは30年戦争で荒廃しました。ルター派はその領土の多くを失いました。宗教的境界がウェストファリアの講和(1648)によって固定され、ごくわずかの例外のほかは、諸侯の宗教が彼の領民の宗教となることに決まりました。この世紀の後半は、支配的である正統主義に対する敬虔主義の形における反動が起こりました。
1817年にプロイセンのフリートリッヒ・ヴィルヘルム三世は、プロイセンのルター派と改革派教会を、プロイセン合同と呼ばれる一つの組織に合併させようと努力しました。保守的なルター派信徒の中には、この動きに反対して合同から身を引き、プロイセン福音ルーテル教会を設立した人びともいました。第一次大戦後に、教会はもはや国家に統治されなくなりましたが、なお国家の支援を受けています。
ナチス政権下でのドイツ文化の統一化では、教会もそれを免れませんでした。1933年には国民的組織であるドイツ福音主義教会が形成されました。ナチス党の支配のもとで、それは国家的民族的教会を進展させるために、純粋なアーリア人の血筋を会員の必須条件としました。この運動に対する反抗は、マルチン・ニーメラーに導かれて、告白教会を設立し、告白教会会議を創設するに至り、1934年に帝国の教会への介入を拒否する宣言を発表しました。
戦後には、ドイツ福音主義教会(EKID)の創設を見ました。それはルター派と改革派の両方の教会のメンバーから成っています。そしてドイツ合同福音ルーテル教会(VELKD)がEKID内のはっきりとしたルター派の支援組織として機能しています。ドイツの教会はまた、ルーテル世界連盟(LWF、1947)と世界教会協議会(WCC)の創設に非常に熱心に協力しています。ルーテル教会は、デンマーク、アイスランド、ノールウェイ、フィンランドの国教会です。スウェーデンもルター派が国教会でしたが、2000年に非国教化されました。
北アメリカでは、オランダからのルター派信徒が1625年にマンハッタン島への入植者の中にいました。1648年にそこに一つの教会が形成されました。しかし、それより早い1638年に、デラウェア川沿いのFort Christina(今のデラウェア州 Wilmington)のスウェーデン人入植者によって教会が設立されています。そして、Tinicum Island(フィラデルフィア南西のデラウェア川沿い)の近くに、この国で最初のルター派の教会堂が1646年に献堂されています。18世紀の初めに、プファルツ(ライン川の両岸)からの避難民がニューヨーク、ペンシルバニア、デラウェア、メリーランドにいくつかのドイツ人ルーテル教会を設立しました。ザルツブルク人のジョージアへの移民(1734)が南部におけるルター主義のはじまりです。
18世紀に、諸教会の組織化がハインリッヒ・メルヒオール・ミューレンベルクによって始められ、彼はこの国で最初の教会会議(シノッド)をペンシルバニアで組織しました(1748)。ニューヨークと隣接州の教会会議が続いて成立しました(1786)。ノース・カロライナのそれは1803年に創設されました。中西部、西部、北西部への入植にともなって、たくさんの小さな教会会議が、ノールウェイ人、デンマーク人、その他の国民グループによって形成されました。
こうして、かつては150ほどのルター派教団に分かれていましたが、1918年に多くの独立したルター派の教団が合同して、United Lutheran Church in America となりました。1872年に形成されたThe Evangelical Lutheran Synodical Conference of North America は、1960年に Wisconsin Evangelical Lutheran Synod(41万人の会員をもち、いま合衆国三番目に大きなルター派グループです)の脱退によって解散しました。260万人の会員をもつルーテル教会ミズーリシノッド Lutheran Church Missouri Synod も以前はその組織に加わっていましたが、いまはルター派の二番目に大きなグループです。1961年に形成された American Lutheran Church と1962年に形成された Lutheran Church in America は1988年に Evangelical Lutheran Church in America となって合同し、いまや最大のルター派グループとなり、520万人の会員をもっています。これらの三つのグループで北米のルター派信徒の約95パーセントを包括しています。教会再一致の精神でもって、福音ルーテル ELCA の教団総会は1997年にPresbyterian Church (USA)、United Church of Christ、Reformed Church in America との完全な交わりに合意しました。そして1999年には聖公会 Episcopal Church とモラヴィア派教会とも同様の一致に到達しました。
1893年のイースターに、アメリカの南部一致シノッドから派遣されたジェームス・シェラー宣教師とルーフス・ピーリー宣教師により九州の佐賀で最初の礼拝が守られました。これが日本でのルーテル教会の伝道の、そして日本福音ルーテル教会の始まりです。これ以後、ルーテル教会の宣教活動は九州を中心として、逐次関西から関東へ教勢を伸ばしました。
1909年、牧師養成のための神学校を設立し、以来、幼稚園・中学・高校・大学などの教育分野で、また社会福祉の働きでも多くの点で開拓者的な働きを示してきました。
1941年、時の政府の圧力もあって、日本のプロテスタント教会が合同することとなり、日本基督教団の第五部に参加しましたが、それは「アウグスブルク信仰告白及びその他の宗教改革信条に基づく教会の信仰を保持し教会としての働きを全うし得ること」を条件としたものでありました。やがて教団が部制を解消し、信仰告白制定の途を辿るにつれルーテル教会は苦境に立たされます。
戦後の1947年11月13日、熊本に集まった旧ルーテル教会有志は日本基督教団からの離脱を決議し、日本福音ルーテル教会として再出発しました。
1953年以来、在日ルーテル系ミッションの合同運動が起こり、フィンランド福音ルーテル教会(1900年/明治33年に宣教師が派遣されたことにさかのぼります)、オーガスタナ・シノッドが合同、さらには1959年にデンマーク・ルーテル伝道会が、また翌年にはディアコニッセ運動推進を目指す北ドイツ・ミッションが参加し、1963年にはスミオ・シノッドが合同。また同年には、旧東海福音ルーテル教会と旧日本福音ルーテル教会とが合同し、新しい日本福音ルーテル教会を組織。そして、1985年、日本キリスト道友会との合同が成立。そして、1993年創立100周年を盛大に祝いました。
こんにち、北海道から九州まで、全国に138の教会と32,000の信徒を擁し、学校、幼稚園、老人ホームなどの施設をもってキリストの福音を証ししています。また、大学に社会福祉学科を持ち、社会での奉仕者を数多く送り出しています。
(この項は、日本福音ルーテル教会のページから学びました。)
この教会の所属する日本ルーテル教団は、米国ルーテル教会ミズーリ・シノッドが1948年9月19日に東京チャペル・センターでウィリアム・ダンカー宣教師の就任式を行い、日本宣教開始を公式に宣言したことに始まります。
1951年、民間ラジオ放送が始まると同時に、ルーテル・アワー放送を用いた伝道を展開しました。1968年に会衆主義制度の自治教会となって米国教会から独立し、1976年には自給を達成しました。国際的には「国際ルーテル教会協議会」に加盟して,保守的ルター派の信仰を共有する海外の諸教会との交わりを持っています。
国内的には、1966年には日本福音ルーテル教会と「聖壇と講壇の交わり」を宣言して、信仰の一致に基づく交わりをもち、ルーテル学院大学において日本福音ルーテル教会と協力して神学教育を行うようになりました。また、1999年にはルーテル世界連盟に準会員として加盟して、全世界のルーテル教会と広く交流を持っています。
こんにち、34の教会、30名の牧師、3,000名の信徒を有します。また、個々の教会は付属施設として幼稚園、保育園による幼児教育を行うとともに、アメリカ・カナダのルーテル教会からの青年ヴォランティアを教師とする英会話教室も、長い歴史をもっています。その他、教団傘下の教育施設として、埼玉県さいたま市に浦和ルーテル学院小・中・高等学校、埼玉県飯能市に聖望学園中・高等学校を経営しています。
(この項は、日本ルーテル教団のページから借用しました。)
他のルター派の教会への言及は、勉強不足のためひかえさせていただきます。あしからず。
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