Sola Gratia

聖霊降臨後第11主日 説教

解放を祝う日

10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

《安息日に、イエスはある会堂で教えておられた》(10)。会堂(シナゴーグ)というのはユダヤ教の会堂で、人びとは安息日にそこで礼拝を捧げます。そこでは「会堂長」が礼拝をつかさどり、適当な人に祈りと聖書朗読、また勧めの言葉を語ることを求めて、礼拝が行われました。イエスさまも安息日に会堂に入り、聖書を朗読し、説教することがありました。

この日、会堂で教えていたイエスさまは、一人の女性に気づきました。この女性は、病の霊に取りつかれ、《腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなくなかった》(11)。実に18年もの間、この女性はこの病に苦しめ続けられてきたのです。この女性は、人目につかない隅っこの方で隠れるようにして礼拝を守っていました。神の憐れみを求め、神の救いを祈り求めつつ、ひっそりとこの18年間、耐え忍びつつ歩んできたのです。

イエスさまは御言葉を語りながら、この女性に目を留め、この女性を《呼び寄せ》(12)ます。彼女はどんなにかびっくりしたことでしょう。このイエスさまの招きの言葉によって、彼女は人々の真ん中に立たされました。彼女は神の憐れみを祈り求めていたけれども、心のどこかでは、自分はもう癒されることはないのではないかと思っている。礼拝の中でも、今語られていることが、まさにこの自分の身の上に起きることなのだとはとても思えない。御言葉が告げることと、自分自身の現実との間に大きな隔たりがある。そんな思いになっていたのではないでしょうか。

そんな時、彼女をはっと我に返らせ、今ここに始まっている神の恵みに目を開かせる言葉が、彼女のもとに届きます。イエスさまはご自分のもとへと彼女を呼び寄せて宣言します。《婦人よ、病気は治った》(12)。すでに済んでいることとして語られています。この女性の苦しみは過去のものとなっている。イエスさまは言います。「もはやあの病の霊はあなたを苦しめることはない。すべての苦しみと悩みはもはや終わっている。あなたは既に、あなたをとらえ苦しめていたものからは解き放たれているのだ。あなたは自らの病の中で、そのあまりにも長きにわたる悩み苦しみの中で、今まさに始まっている神の恵みが見えなくなっていた。しかし安心しなさい。あなたをわたしのもとに招き、立ち上がらせるために、わたしはここに来たのだ」。

こう語りかけて、イエスさまは、《その(女の)上に手を置かれた》(13a)。既にこの女性の中に与えられている解放、自由に、彼女自身が気づくように促したのです。自分の中に始まっている神の恵みに、素直に従って生き始めるように手を置いて、力を注いでくださった。この時、《女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した》(13b)。もはや遠くでうつろに聞こえている説教の言葉ではない。今ここで、この私を生かし、支え、立ち上がらせる言葉、それがイエスさまの言葉です。彼女は御言葉の光の中で、自らの人生を建て直すことができました。彼女が受けたのと同じ、この御言葉に招かれて、私たちも主の日の礼拝ごとに、今ここで神の恵みの御業が自らのうちにも既に始まっていることを喜ぶのです。

ところが、会堂長はこの出来事を一緒になって喜ぶことができません。この日が「安息日」、働いてはならない、休むべき日だったからです。

この出来事を起こしたのはイエスさまです。彼女が癒してほしいと、イエスさまの前に進み出たわけではありません。すべては先立ち導くイエスさまの御業の中で起こったことです。しかし、会堂長は直接面と向かってイエスさまを非難することなく、群衆に向かって言います。《働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない》(14)。安息日に人を癒すこと、また癒してほしいと願い出るような行為は、安息日に仕事をしてはならないという、神の戒めを破ることになると言っているのです。実際に癒しの業を行われたイエスさまご自身をも間接的に非難します。

イエスさまはこの会堂長の非難に厳しい言葉で応えました。《偽善者たちよ》(15)と。「偽善者たち」と複数形で言われているのは、イエスさまが会堂長一人だけではなく、会堂長に代表される律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々全体を問題にしているからです。この会堂長たちの「偽善」はどこにあるのでしょうか。彼らが教えていた律法によれば、《安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いていく》(15)ことは許容されていました。この安息日を定めている十戒の中に、こう定められています。《六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である》(出エジプト20章8~10)。そのゆえに、会堂長たちは安息日であっても、牛やろばを水のみ場に連れて行くことを良しとしていたのです。安息日は、自分だけ良ければそれで済むものではない。まわりの人々、生き物すべてと共に、神の祝福、神の恵みに与かることが目指されていなければならない。そのことをよくわきまえているはずなのでした。

そこで、イエスさまは問います。家畜でさえもそうであるとするならば、この女性が今まっすぐに立ち上がることができるようになったことを、どうして一緒に喜べないのか。一人の女性が心までも固くなって御言葉を聴くことが難しくなっていた時に、イエスさまの招きによって新しく立ち直ることができた。一方で家畜が安息に与かることができるようにという心配りを教えるあなたたちが、なぜ他方では、それにも勝るに違いないこの女性の新しい歩みを、不愉快に思ってしまうのか。家畜の一日の渇きにさえ、配慮できるはずのあなたたちがなぜ、18年もの長きにわたって曲がった腰に苦しめられ続けてきた女性の癒しを共に喜べないのか。あなたたちがこの女性と礼拝をする群れとして共に歩んできたのならば、女性の苦しみを理解し、共に祈る歩みを続けてきていたならば、この人が癒された時、会堂には皆の喜びが満ち溢れたはずではないのか。そうでないのは、表面では神の戒めを尊んでいるように見えながら、心の奥底では自分の好き嫌いに支配されているからではないのか。そこにあなたの偽善があるのではないか。律法によって教えていることと、思っていること、実際にしていることとの間に分裂があるのではないか。そのことを見ずしてあなたたちが捧げている礼拝とは一体何なのか。これがイエスさまからの問いかけです。

この女性も《アブラハムの娘》(16a)です。アブラハムから始まる神の民の一員なのです。神が選び、招き、祝福と平安に、神の安息に与からせようと欲しておられる、その一人に違いないのです。《安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか》(16b)。ここにイエスさまの御心、すなわち神の御心が表れています。共に神の安息に与かること、それこそが神の御心です。安息日が目指すところです。そこを受け止めないで、律法が人を裁き、神の恵みの御業から遠ざけるための道具になり果てるとき、イエスさまはまことの神の安息のために立ち上がって、歪められた律法の理解と戦われるのです。

私たちはこの会堂長たちの姿を、なにか自分とは関係のない、イエスさまに叱られた悪い人たちだなどと、他人事のように見ることはできません。私たちもまた、しばしば自分のことのみに思いが向いてしまい、共に礼拝を守る他の人たちに思い及ばなくなるからです。かつては失われていた「アブラハムの子」であったところを、イエスさまに呼び出だしていただき、癒していただき、立ち上がらせていただいたことを、忘れてしまうからです。

あの女性と同じ癒しと祝福に私たちも招かれています。礼拝は、この恵みの中へと新しく解き放ってくださるイエスさまの招きの御声を聴く時です。イエスさまが戦い取ってくださる真実な礼拝に与からせていただき、神の安息にすべての神の民と共に与かる時なのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子の愛の御業を通してあなたに招かれた私たちが、あなたが備えてくださっている安息日の祝福と平安にともどもに与るために、互いに覚えあい、とりなし祈りあう神の民を築きあげてください。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン